人波に逆らって、走ること数分。
ようやく、人通りもまばらになってきた。
それにしても、お腹が空いた……クロロ団長に出会った時から念能力を使いっぱなしなのがひびいてきてる。
コルトピさんに見つかったとき、一度は空に等しかったオーラを絶によって少しは回復できたものの、さっき使った“嘘つきな隠れ蓑”での消費量でおじゃんになっちゃったし。
今はもう、姿は隠せていない。
今見つかったら、完全にアウトだ。あれくらいのことで、幻影旅団をまけたとは思えないし、すぐにでも追跡してくるはず。
こうなったら、オーラをできるだけ消耗しないように絶で気配を消しながら潜伏して、彼等に見つかる前に、なんとかイルミと合流するしかない……それなのに。
『おかけになった電話番号は、現在、通話中のためお繋ぎできません。少し時間をあけてから――』
だああああああああああああああああああ――――っもう!!!!
イルミのばかったれえええええええええい!!!!
もう、こうなったら頼りませんよ!!
意地でも一人で逃げおおせてみますともさ!!
「……はあ、はあ。そうは言ったものの、どこへ逃げようか。ああもう、海に飛び込めればこっちのものなのに」
ヨークシンベイエリアから沖に5キロ先には、最深部が3000メートル以上の大海溝、グリンドリアン海溝が存在している。
今の時期、あそこの1000メートル付近には、うちの研究所の無人探査艇が沈めてあるはずだ。
ふだんは無人だけど、いざというときには中に入って水分補給や栄養補給ができる。仮眠もとれるし、通信機能も充実しているスグレモノ。
でも、私の今いるここは、海とは正反対の郊外付近。
水路か運河を辿れば、河口へ出れるだろうけど、もしも、その途中で見つかったら――
「……っ!」
再び、原作でのスクワラさんの最後が頭を過ぎった。
怖い……身体の震えが、さっきからずっと止まらない。
どうしたら、と途方にくれたその時だ。
とある嗅ぎ慣れた匂いが、私の鼻腔に飛び込んできた。
「――潮の匂い? それも、随分近い場所から……どうしてだろう」
鼻の奥をくすぐられるような、独特の匂い。
出場所を探して三叉路を曲がると、円形の広場に辿り着いた。
魚や貝を模した、青いタイル。
その中心に、大きな噴水がひとつ。青空に向かって、勢いよく水を拭いている。うねる波と、そこに身を躍らせる石膏の人魚のモチーフ。
通常、噴水の水を受けるための水盤がなく、そのかわりに、円形の広場は中央に向かってなだらかな窪地になっており、そこに水がたまる仕組みだった。
「綺麗な人魚……そっか、もしかしてこの水!」
すくって舐めてみると……しょっぱい!
「海水だ! 海からここまで、水をひいてるのか……。っもしかして!」
あることを確信した私は、買ってもらったばかりのショートブーツが濡れるのも構わずに、ザブザブと溜まった水の中へ入っていった。
深さは膝の上くらい。頭上からは、噴き出された海水が大量に降り注いでくる――海の匂い、海の味。
「やっぱり……!」
冷えた水に浸かっているはずなのに、身体の奥がカアッと熱を持つ。
熱い。
熱い。
胸の中からあふれ出した熱が、心臓から血管を通って、全身の皮膚の先まで駆け巡る。
オーラが漲る。
まるで、砂浜でひからびそうだったクラゲを海中に放つように、私の中で、底をつきそうだった力が、みるみるうちに蘇ってくるのを感じる……!
「これならいける……!海の中なら、絶対負けない……負ける気がしない……!」
……負ける?
何考えてるの、私。
頭の中に、一瞬でも過ぎった考えに冷や汗が噴き出した。
負ける気がしない、なんて。
あんな化け物集団相手に、戦う気持ちなんてこれっぽっちもないのに。
見つかれば、捕まって殺されるかもしれない。
万が一、生け捕りにされたとしても、その目的は能力を奪うためだ。念能力――この、守りの力を奪い去られれば、私に抵抗する術はなにもない。
捕まるわけにはいかない。
見つかるわけにはいかないんだ。
だから、今は私の全力をもって逃げないと。
隠れないと。
彼等は捕食者。
私は――餌なのだ。
***
「おかしいわね……」
念能力の応用であるサイコメトリ―により、通行人の瞬間記憶から獲物の足取りを追跡してきたパクノダは、郊外の噴水広場で足を止めた。
彼女の後を追って、フェイタン、フィンクス、コルトピが駆けつける。
「パク! 獲物はこの広場に逃げ込んだのか」
「そのはずだけど……足取りが途切れたというより、完全に気配を見失ったわ。隠れているとしたら、見事ね」
パクノダの言葉に、フン、とフェイタンが鼻を鳴らす。
「相手はあのゾルディクが嫁に認めたほどの殺し屋ね。それくらい、わけないよ」
「殺し屋ねー……フェイタン、あの子はほんとーに殺し屋なの……?」
くりっと、つぶらな瞳でコルトピが尋ねると、細目の殺し屋は珍しくその双眸を見開いて、やれやれと嘆息した。
「……しつこいね、コルトピ。そじゃない証拠でもあるのか」
「証拠って言うか……前に、フェイタンが言ってたじゃない。ボクらみたいに、闇に墜ちた者には、同族が分かるって。どんなに外見を装っても、本能で感じるって……あの子には、それがなかったんだよねー、全く、全然」
「――ま、それはワタシも同じね。だが、だからこそ納得もしているよ。あの女が殺し屋で、ワタシ達が獲物なら、とくの昔に隙を突かれていたね。殺気を殺すのも腕のうちよ。一流の殺し屋は、殺したことさえも、獲物に悟られないね」
「そーいうもん……?」
「嗚呼、そういうものよ」
だから、妙な庇い立てはもうするな――そう、フェイタンが言い含めようとしたその時、ふっと、懐かしい気配を感じた。
同時に、広場を囲む建物の屋根から、人影が飛び降りてくる。
「来たね」
直前まで、彼の気配はほとんど悟れなかった。
しかし、一度存在を認めたら――その身に纏うオーラはあまりにも鮮烈で、強大で。
クロロ・ルシルフル。
悠然と現れた蜘蛛の頭――黒髪痩躯の青年に向かい、パクノダは深々と頭を下げる。
「――お久しぶりです、団長」
「パクノダ。フェイタン、フィンクス、コルトピ。追跡、ご苦労だった」
「いえ。ところで、団長……なぜ、上半身裸に? 確かに目の保養――じゃなくて、今日は暑いですが、流石に風邪をひきますよ」
「問題ない」
きっぱり答えるクロロ・ルシルフル。
悪事は万事抜け目なく狡猾なくせに、妙なところが抜けている。そんなところは昔とちっとも変わっていない、とパクノダは苦笑する。
そんな彼の登場から一呼吸置いて、残りの団員達も次々に広場へ飛び降りてきた。
「ウボォ―ギン、ノブナガ、マチにシズク……おいおい、シャルまでいたのに逃がしたのかよ! あんな女一人捕まえられねぇとは情けね-な!」
「フィンクスだって人のこと言えないくせに……」
「またくね」
「うっせーぞ、お前ら!」
真っ赤になって怒鳴るフィンクスを尻目に、クロロは平然とした面持ちで、噴水広場を見渡した。
ここは、オークションで賑わう市街地から少し離れた郊外――観光客の姿はなく、前準備で出払っているのか、住民がいる様子もない。
人魚を模した巨大な噴水から、空高く吹き上げられた水が落ちて、弾ける。
そんな水音が反響する無人の広場。
――だが、
「……いるな」
小さく呟かれたクロロの言葉に、それまでてんでに騒いでいた団員達が押し静まった。
「……マジでここにいんのか? あの嬢ちゃん。いるとしたら相当の手練れだぜ、俺の円にもひっかからねぇ」
「アンタの円は4メートルが限度だろ、ノブナガ。アタシは団長に同意だね。あの女は、間違いなくこの広場に潜んでる」
「勘か?」
「勘だ」
「……チッ、お前の勘は当たるからなぁ」
ぽりぽり、後ろ頭をひっかくノブナガの隣で、はいはーい、とシャルナークが修学旅行の先生よろしく、指揮を執る。
「とにかく、手分けして怪しい場所を探してみようよ。大して広い広場でもないしさ。ただし、相手は殺し屋だ。不意打ちの攻撃には充分に注意すること。あと、殺しちゃ駄目だからね――てことで、いいよね団長」
「ああ」
「じゃ、皆。捜索開始!」
***
……来た。
フェイタンさんにフィンクスさん、コルトピさん。
彼等とともに、金髪長身の女性の姿――あれは、パクノダさんだ。
どうやら彼等は、パクノダさんの記憶を読み取る能力を使って、私を追跡してきたようだ。
そして間もなく、クロロ団長率いるウボォーさん、ノブナガさん、マチさんシズクさん、シャルナークさんが合流する。
幻影旅団は全員で13人だから――かれこれ、9人、なんと70パーセントもの団員達がこの場に集結していることになる。
それだけ、彼等は本気なのだ。
本気で私を捕らえようとしている。
幻影旅団。かつて、クラピカの故郷を襲い、村人全員の眼球を抉り出し、命を奪い去っていった彼等。
そんな、殺人集団が。
「……っ」
不安と、それに連動する恐怖心に押しつぶされそうになりながら、私は必死で気配を殺し、彼等の言動に集中した。
けっして見つかってはいけない。
このまま、この噴水から噴き出す海水の中に潜んでいれば、なんとか逃げおおせられるはずだ。
彼等がここを立ち去り、ほとぼりが冷めた頃合いを見計らって、イルミに連絡をとり、合流する。
それが、この瞬間、この場所、この環境下で生き抜くための最善の策だ。
大丈夫、きっと大丈夫。
ここは海の中と同じなんだ。
海中は私にとって最も適応しやすい場所。負担が少ない分、オーラの消費量も押さえられ、海という自然界を巡るオーラも循環させやすい。
それに、なんといっても海は私の職場でもある。
普段、陸にいないときはずっと深海で警戒心の強い海洋生物たちを相手に至近距離での研究観察に勤しんでいるんだ。
喰うか喰われるかの刹那の中で、彼等の生に密着しているのだ。
いかに彼等が優れた念能力者であろうとも、人間である幻影旅団に気配なんて絶対に悟られない。
だから、きっと大丈夫。
忙しなかった動悸がようやく落ち着きを取り戻し、ふう、と息を吐いた瞬間――すぐ近くでドゴ―――――ン!!と、猛烈な破壊音がした。
見ると、背後にあったはずの噴水のモチーフの一部が粉々に粉砕されているではないか。
直後――
「うおおおおおおおおおおおお――っ!! ちまちま捜索なんざ、性に合わねぇんだよ!!」
「おお! いっそのこと、この広場ごとブッ潰しゃあ、嫌でも出てくるだろ!!」
「ウボォー! フィンクス!! 駄目だよ、出来るだけ傷つけないように捕獲って団長命令なんだから!」
「くっくっ、止めても無駄だぜぇ、シャル。強化系って奴ぁ、気が短けぇからなあ」
からからと楽しそうに笑うノブナガさんに、単に馬鹿なだけだろと、マチさんが冷たい視線を向ける。
団長と言えば、彼等の拳に壊されていく広場の様子に動じもせず、ふむ、と何やら思案した。
「――なるほど。適度に炙り出すのも悪くない……か。だが、ほどほどにしておけ。俺は、あの女の能力に興味がある」
「了解!!」
り、了解! じゃないですよもう!
これは……この事態は予想してなかった……いや、予想しておくべきだった。
隠れる場所が壊されたら、私にはもう打つ手がない。
もし、ウボォーさんが彼の念能力、“超破壊拳(ビッグバン・インパクト)”を使って、噴水広場そのものを破壊してしまったら。
タイル敷きの地面は粉々になり、溜まった海水は亀裂の中へと吸い込まれて、取り残された私は……私は。
ぶるっと身震いした瞬間、押さえていたオーラに、僅かな乱れが生じた。
「――そこね!」
――っ!
ビッ!と、頬を掠るナイフの刃。
投げ手は黒衣の殺し屋さん。水面下で、僅かにゆらいだオーラを嗅ぎつけ、正確な狙いをつけてナイフを投げてきた。
とっさに悲鳴を殺せたのは、ゾルディック家での日常の賜物だ。イルミのエノキや、シルバさんの殺人ナイフには慣れっこになっている私だけど、こんな風に、本気で命を狙われる経験は少ないから、自信はなかったけど……よかった。
「……気のせいか」
フェイタンさんのナイフは、私の頬を少し掠って、石膏のモチーフに突き刺さっただけで事なきを得た。
それでもまだ訝しげな表情の彼に向かって、シャルナークさんが明るく笑いかける。
「フェイタンの勘が外れるなんて、ちょっと珍しいよね」
「五月蠅いよ、シャル」
他を探すね、と踵を返す黒衣の殺し屋さんと腹黒金髪青年。
でも――それを制したのは、あの人だった。
「待て」
「団長?」
静かな一言に、フェイタンさんとシャルナークさんが足を止める。
そんな二人を、いや、正確には、二人の背後にそびえ立つ噴水を、蜘蛛の頭――クロロ・ルシルフルはじっと見つめている。
「……なるほど、そういうことか」
「どうしたね。女の居所でも分かたのか」
……まずい。
まずい、まずい、まずい……!!
ああ、と頷いて、クロロがこちらへ近づいてくる。
口元には笑み。
目線は、噴水の根元に溜まった海水の中――真っ直ぐに、私を貫いている。
ザブ、と、歩みを進める彼の片足が水に埋まる。
「最初から気づくべきだった。女はなぜ、この場所を選んだのか。噴水のある、この広場を」
「噴水……水、か!」
シャルナークの言葉に、個々に捜索を行っていた団員達の視線と殺気が噴水に集中した。
「水……? なぜ水ね。身を隠すなら水中よりもマンホールから地下に潜るよ、ワタシならね」
「フェイタンはあの場にいなかったから知らないのは当然だけど、俺達はあの子の念を見たんだ。コップの水を操って、団長を溺れかけさせた」
「何? ――嗚呼、それでその格好か、団長。世話ないね」
心底呆れた、と嘆息するフェイタンさんに、クロロ団長はくすりと笑った。
「まあ、そう言うな。時には見ることも重要だ」
そして、そのままの表情で、こちらに向き直る。
絶対に。
絶対に、姿までは見つかっていないはずなのに。
こうも正確に、気配から獲物の位置を推測できるものなのか。
驚愕と、恐怖に、身動きがとれない。
頭の中では、逃げろ、とイルミが叫んでいるのに。
逃げられない。
逃げられない……!
一指動けず水面下に潜む私に向かって、クロロ団長は穏やかな笑みを浮かべたまま、手をさしのべた。
「出てこい。素直に従うなら、命までは盗らないさ」