あの南の島での騒動から、早一週間が過ぎた。
イルミとともにデントラ港へ戻り、事を収めた私達は、研究用に借りている港の家で、新婚さんさながらの日常生活を送ろうとしていたのだけど――その翌朝、けたたましく鳴り響いた携帯の着信音が、平和な時間に終止符を打ったのだ。
不機嫌さMAXのイルミを引きずって、ククルーマウンテンに戻って早々。彼を待ち受けていたのは、山のような暗殺依頼だった。
なんでも、一流の暗殺者揃いだったイルミの花嫁候補達を私達がよってたかって一網打尽にしてしまったせいで、方々からの暗殺依頼がゾルディック家に一点集中。商売繁盛、てんやわんやの大騒ぎと相成ったのである。
暗殺家業のゾルディックとしては嬉しい限りかもしれないけれど、おかげでイルミは仕事にでずっぱり。
超多忙な日々が幕を開けてしまったというわけ。
せっかく二人で合わせてとったお休みも、全~部パア。
お金はあれど、時間がない。
社会人としては、とても辛いところだ。
「この埋め合わせは、来月にしてもらうからね……」
暗殺者オーラを全開にしたイルミが、シルバさんに言い残して仕事へ飛び去り――今日で七日目。
昨日の夜、すでにイルミからは連絡を貰っていたんだけど……そのせいで、昨日はろくに眠れなかったんだけど……!
今夜は、ついにイルミが帰ってくる!!
「ゾ~ル、ゾ~ル、ゾルディーック! 世の中のため、人のた~め~♪ ゾ~ル、ゾ~ル、ゾルディーック! 殺しの技術は~天下いっち~♪ ……はあ、イルミ、まだかな~。八時にはこっちに着くって言ってたけど、もう九時だし。フライト時刻が遅れてるのかな?」
せっかく、今が旬の秋刀魚を産地直送で捕ってきたっていうのに。
うーん、と腕を組んで見つめる先には、キッチンのまな板に横たわった、丸々と太った新鮮な秋刀魚。
焼いて良し、つみれにして汁物に入れて良し、刺し身にしてなお良し。
イルミはマグロの、しかも赤身を好むけれど、食べたら絶対に気に入ってくれるはずだ。
とれたてピチピチ、ほんの数時間前には元気に海を泳ぎまわっていた魚体は、死してもなお芳醇なオーラを帯びて輝いている。
お刺身につみれ汁、天ぷらも作ったから、最後の一尾はさばいて刻んで、お味噌とおネギを混ぜて、なめろうにでもしようかな。
「なめろ~、なめろ~、皿までなめろ~! うわあ、美味しい! これはもう絶対に美味しい!! あーあ、イルミ、早く帰ってこないかなあ」
御膳いっぱいに作った夕食を手にリビングへ戻ると、一足早めに食事を終えたミルキ君とカルト君が、ソファでくつろぎながらテレビを見ていた。
私の姿に気がつくと、すかさずカルト君が御膳を持ちに来てくれる。ミルキ君のほうは、少し呆れた顔だ。
「お手伝いします、ポー姉様!」
「ありがとう、カルト君。重いから気をつけてね?」
「ってか、ちょっと作りすぎじゃねぇ? イル兄一人で食いきれる量じゃねーだろコフー。へへ、なんだったら、俺が少し食ってやろうか痛えっ!」
「触手チョップ!! ミルキ君たら、さっき夕ごはん食べたばっかりでしょ? そんな風に食べてばっかりいると、せっかく痩せたのに、すぐに元に戻っちゃうよ?」
また、ビスケさんの地獄の念修行を受けたいの? と軽く睨むと、以前よりは少々ほっそりしたミルキ君の顔が、たちまち青くなった。
「うん、よかった。相当懲りたみたいね。それにしても、イルミの帰りが遅いと思わない? 八時には帰るよって言ってたのに。何かあったのかなあ……ねえ、何も連絡は来てないんだよね?」
「ああ、来てないぜ。今、兄貴がいるのって、確かジャポンだろ? あそこの空港、小さいくせに利用客が多いから、よく遅れるんだよなコフー」
「大丈夫です。ポー姉様。ニュースでも、大きな事件は何も報道されていませんから」
つい、とカルト君が細い指で画面を指し示す。テレビのチャンネルはニュース番組。ミルキ君にしては、ずいぶんと珍しい。
「いつも、アニメか特撮ヒーローものしか見ないのに。何か気になるニュースでもあるの? ミルキ君」
「ん? ああ、実はさ。キルアとゴンに頼まれてた、グリードアイランドってゲームがあっただろ? あれ、幻って言われてるだけあって、マジで入手が困難でさ。セーブデータからゲームの復元が出来ねーかなと思ったけど、まるで無理。そしたら、今度のヨークシンオークションに何本か出品されるって情報が入って、それで――おい、ポー姉?」
「ポー姉様?」
「……」
グリードアイランド。
ヨークシン。
オークション。
御膳をテーブルに、ソファに腰掛け、固まること、しばし。
記憶の底から、それまですっかり忘れていた――大切な、大切なことが唐突に浮上した。
「――っあああああああああああああああああああああ――っ!?」
バーン!! とテーブルを叩いて飛び上がる。
忘れてた……すっかり忘れてた!!
本・編・の・流・れ!!
「ななななんっだよ!? なんだよ、突然喚いたりしてさあっ!?」
「ミ、ミミミミルキ君、ミルキ君!! 今日って何月何日だっけ!?」
「はあ!? 何日って……8月の28日だろ?」
「28……29、30、31、9月1日。どどどどうしようっ! 南の島で浮かれてるうちに、もうこんなに時間が経ってたんだ。自分の日常に精一杯で、本編の流れなんて、すっかり忘れてた……!」
ハア? と、意味がわからない顔を見合わせるミルキ君とカルト君をよそに、私はニュース番組にかじりついた。
『開催まであと三日! ここ、ヨークシンシティでは9月1日より始まるオークションの準備が着々と勧められておりまぁ~す!』
ピンク色のスーツに身を包んだニュースキャスターが大興奮で報道しているのは、オークション開催を間近に控えたヨークシンの中継だ。
ヨルビアン大陸西海岸の都市。、ヨークシンシティ。
ここでは、毎年9月に世界最大のオークションが開催される。
開催期間は10日間。数多くの珍品・貴重品が競売にかけられるため、それを目当てに金持ちや一攫千金を狙う人々が世界中から押し寄せる。
絵画、古美術、宝石、骨董品など、数々のコレクターズオークションをはじめ、犯罪組織による闇のオークションも多数存在する。
世界最大の――大競市。
「どうりで最近、ヨルビアン大陸周辺を行き来する大型船や潜水艦の護衛依頼が多いと思った。来ちゃった、ついに来ちゃったああああああ~!! どうしようどうしよう! このままじゃ、原作に忠実に事が運んじゃう! でもでも、まだまだ私は弱いし怖いし、あんな危ない人達と出会って、あんな事やこんな事なんて出来る気がしないっ! 怖いっ!!」
「あんな事って……何言ってんだ、ポー姉」
「あーっ! そうか、行かなきゃいいんだ……いやいやいや、そうすると皆の活躍が見れないじゃないの!! 駄目!! HUNTER×HUNTERファンとして、ヨークシン編を見逃すだなんてそんなことしたらこの先一生後悔するううううう~っ!!」
「……おーい、いつも以上に分けわかんねーぞ、ポー姉」
呆れ顔を傾げるミルキを尻目に苦悩にのたうちまわった私は、ついに頭を抱えて蹲った……だけど、その時。
リビングの壁に掛かった巨大なテレビ画面に映しだされたある光景に、目が釘付けになった。
『次にご紹介いたしますのは、ヨークシン港で行われる戦艦オークションで~す! こちらにはヨークシンのみならず、世界各国の軍事組織から、払い下げ品、中古品、旧世界大戦時代の戦艦コレクションなどなど、レア物の戦艦や潜水艦が多数出品されるとあって、多くの軍事マニアの皆さんで賑わっておりま~す! そしてそしてぇ~! 今年の目玉は、なんといってもメリカナ合衆国より出品予定の巨大空母、“シースター”です!!』
「え……っ?」
『残念ながら、動力部は故障のため、修理改善が必要ですが、飛行甲板の面積は、なんと1,8ヘクタール。これは、ヘリコプターでは70機。飛行船ですと、約40期が離発着可能! 通常、私的予算では手が出ない航空母艦が競売に出されるとあって、会場前には熱狂的な空母ファンの方々が、泊まり込みで行列を作っちゃってま~す!』
「……」
無言で、テレビ画面に歩み寄り、ぺたり、と、画面に貼りついた。
これは夢……ではないのか?
「おーい、ポー姉! そんなに引っ付いたらテレビ見れないじゃねーかよ! ……聞いてねーし。ったく――あ、おかえり、イル兄!」
「ただいま。……ねえ、あんな風にほっぺたをひっぱったりして、ポーは一体何してるの?」
「いや、それが俺にもよく分かんねーんだけどさコフー」
「ふーん」
「いったああああああああああああああいっ!! ゆ、ゆゆゆゆ夢じゃない!! 夢じゃない!! 夢じゃないよ、本当に出品されるんだ空母!! しかもメリカナ合衆国製のニミッツ級空母――っっ!! よっしゃあああああ!! 行く!! 何があろうと行ってやりますとも、ヨークシンへっ!!」
「ヨークシン?」
「そうだよ、イルミ! こんな風に迷ってる場合じゃないよ、今すぐにでも行かなくちゃって……イイイイイイイルミ!? い、いつの間に帰ってきたの!?」
「ついさっきだよ」
くりっと首を傾げるのは黒のジャケットにパンツスタイルの、黒髪長身の暗殺者。
真っ黒な猫目をきゅっと細めて、イルミは私に向かって手を広げた。
「ただいま、ポー」
「おかえり……お帰りっ、イルミ!!」
勢い良く飛びつけば、イルミは少しよろけながらも、しっかりと私の身体を受け止めてくれた。
嬉しい、嬉しい!
ついさっきまで、頭を抱えて悩んでいたのが嘘みたいだ――
互いに互いを抱きしめて、しばらくそのままぎゅーっと引っ付いていたら、いつまでやってんだよ、とミルキくんが溜息をついた。
テレビを消して、テーブルやソファに広げていた本や雑誌を片付けて、立ち上がる。
「まあいいや、落ち着いたみたいだし。じゃあ、俺達はそろそろ寝るからなコフー。行くぞ、カルト」
「はい、ミル兄様。ポー姉様、イル兄様、おやすみなさいませ」
「おやすみ。二人とも、しっかり寝るんだよ」
「おやすみ――っあ、ちょっと待って、ミルキ君! あのさ、その雑誌、さっき言ってたオークションの事が載ってるんだよね? ちょっと見せてもらってもいいかな?」
「ああ、いいぜ。その代わり、明日の朝食にはケーキとパフェとアイスクリーム、超大盛りな――わわっ! に、睨まないでよ、イル兄! 冗談だろコフー」
「うそつけ」
全く……と嘆息するイルミをよそに、私はミルキ君からヨークシンの観光雑誌を受け取った。表紙に大きく、“世界最大の大競市! 近日開催、ヨークシンオークション大特集!!”と題されたそれは、ヨークシンで開催される様々なオークションを詳しく取り上げた専門誌のようだ。
もちろん、さっき中継されてた戦艦オークションの特集もバッチリ。
もう遅い時間なので、夕食の御膳をイルミの部屋に運び入れ、ソファへ腰掛け、さっそく読み込んでみることにした。
「へえ~、メインオークションの他にも色んなオークションがあるんだあ。ジュエルオークションに、ドールオークション。あっ! 世界各国の生物化石が一挙に集まる化石オークションなんていうのもある。えーと、なになに。今年の目玉はなんといっても、五億四千年前に実在した巨大海洋生物、シファクティヌスの全体化石です、だって! すごい、欲しい!! 幾らするんだろう!!」
「それを決めるのが、オークションだよ?」
焼きたての秋刀魚の塩焼きを骨から綺麗に外して、もぐもぐと食べながら、イルミ。
テレビでは、さっきリビングでミルキくんが見ていたニュースが流れている。
「ヨークシンオークションか。そういえば、もうすぐ9月だね……行きたいの?」
「行きたい! イルミお願い、お仕事続きで疲れてるかもしれないけど、私、これだけはど―――――――――っしても、どおーーーーーーーーーーーっっしても行きたいの!!」
もぐもぐもぐ、塩焼きの次は姿造りにした秋刀魚のお刺身を次々と平らげながら、イルミは無言である。
真っ黒な目で秋刀魚の頭をひたと見つめ、なにやら思案している様子である。
どうしよう、駄目なのかな。
でも、例え駄目って言われても行きたい。
どうしても行きたい。
一人のHUNTERファンとして……そして、夢にまで見た私用航空母艦を手に入れるためにも、どうしても、どうしても行かなきゃいけないんだあああああああああ――っっ!!
「イルミお願い! お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い――っ!!」
「ごちそうさま、すごく美味しかったよ」
「イルミっ!」
いいよ、とも駄目、とも言わずないまま、彼は立ち上がる。
ソファの上をゴロゴロ転がる私の首根っこをひょいと持ち上げ、
「海月。そんな子供っぽいおねだりの仕方じゃ、俺、嫌なんだけど」
「え……?」
「できるでしょ? もっと上手におねだりして見せて……」
ね、と小首を傾げるイルミの顔が近づいてくる。
「――んっ」
「……」
優しいくちづけは、でも、瞬く間に深くなった。
熱い舌に自分のものを絡めると、少し苦味のある柑橘系の香りがする。
キスをしながら運ばれた先は……言わずもがな。
「――ぷはっ! お、おおおおおねだりって、えっ!? ちょ、ちょっと待ってよ、イルミ!!」
「待たない。というか、待てないよ。これでも一週間、死ぬ気で我慢したんだからね。今夜くらいは俺のこと、甘やかしてくれてもいいじゃない」
「イルミ……」
それは……私だってそうだ。
調査や研究に埋もれていた夏、やっとのことで休みを合わせ、南の島へ旅行に行ったら、ゾル家主催のとんでもない婚約発表パーティーに巻き込まれ。ようやく一段落して、さあイチャイチャと思った次の日には、今度はイルミの方が仕事に追われることになり――紆余曲折を経て、やっとこうして一緒にいるんだから。
「私だって……私も、会いたかったよ。イルミ……」
「うん」
二人でベッドに向き合って転がって、どちらともなく唇を合わせた。
イルミの匂い。
イルミの体温。
なんだか、もうずいぶんと長い間合っていなかったような心地がして、いつもよりもたっぷりめのキスをしているうちに、ふとあることに気がついた。
「イルミ、もしかして、お酒飲んだ?」
舌を絡める度に、さわやかな柑橘系の香りがする。そして、ほんの少し舌先に残るのは、アルコールの苦味だ。
仕事終わりに一杯、なんて、男の人なら当たり前のことなのかもしれないけど、イルミにしては珍しい。
「それで遅くなったの?」
「ううん。空港が混んでて、待ちぼうけを食らってる間に一杯だけね……怒った?」
「全然。ただ、珍しいなって思って。てっきり、ヒソカさんにでもバッタリ会って、付き合わされたのかなって」
「……海月って、変なところが鋭いよね」
いつもはポーッとしてるのに、とイルミ。そっと伸ばされた指に、からかうように喉をくすぐられた。
「正解。でも、相手はヒソカじゃないよ。仕事上の付き合いってやつ。勿論、女でもないからね」
「くすぐったいよ。ふーん……でもさ、イルミ。一緒に飲んだその人のこと、ちょっと警戒してたでしょ」
「どうして?」
喉から胸元へ、伝い降りようとしていた指の動きが止まり、イルミの目が少し丸くなった。
「だって、いつもだったら、こんな苦いお酒は飲まないじゃない。だから、飲んでても気の許せない人だったのかなって、思ったの」
「鋭いねー、どうしたの今夜は」
よくできました、とでもいうように、イルミは喉を撫でていた手のひらで、私の頭をくりくりと混ぜた。
懐かしい。まるで、ハンター試験で念を教わってたときみたいだ。
「えへへー! そりゃあ、私だってゾルディックの一員になるんだもん。それに、普段、表情のない海の生き物をじっと観察してるから、人間観察が得意になっちゃったみたい。人ってわかりやすいよねー、イルミは例外だけど」
「こら」
こつん、と軽く突っ込まれ、
「でも、素直にすごいと思うよ。大正解――でもね、海月」
「むにゅっ!?」
イルミの手のひらに口を塞がれた、と思う間に、むにゅっと掴まれる。
「それを、軽々しく口に出すのはアウト。相手が敵の場合には、特にね。下手に感が鋭いと知られると、口封じに殺されやすくなるから気をつけて。自分の実力を認めさせたい場合においてのみ、有効だ」
「わ、わかりました」
出た、イルミ先生の暗殺教室……これもずいぶん久しぶりな気がする。
「さてと、じゃ。さっきの続きね」
「わっ!?」
ひょい、と持ち上げられ、仰向けに寝転んだイルミの上に馬乗りに座らされてしまう私。
「つ、続きって、なに、えっ!?」
「なにじゃないよ。行きたいんだろ、オークション」
だったらがんばってね、と囁いたイルミの手が、私の着ているシャツに、ゆっくりと伸び――
「きゃあああああああああ!! ちょちょちょっと待って待ってイルミ、明るすぎるよ、電気消すから脱がすの待って、ああ、そんな……!!」
いーやあああああああああああああああああ……!!
夜更け過ぎ。
標高3370メートルのククルーマウンテンに響き渡った私の悲鳴に、うたた寝していたシルバさんが「……うるせえなぁ」と思ったとか思わなかったとか。