「……はぁ!? ポー姉がいない?」
所変わって、ここはパドキア共和国ククル―マウンテン山頂、ゾルディック家次男、ミルキ・ゾルディックのお部屋。
執事を通じて連絡を受けたのは、昼前のことだった。
昼食に、と用意したカップラーメンにお湯を注いだ直後。
タイミング的には最悪だった。
「部屋にいないって、どういうことだよコフ―! ……誘拐?」
力尽くで壊されたドア。バルコニーに通じる窓は外側から割られているという。
室内で戦闘したあとは無く、室外に取り付けられた監視カメラにも、犯人達らしい姿はなにも映っていない。
現場からの執事の報告は以上だった。
通話を切って、ミルキはしばし思案する。
「手際が良すぎる……コフ―。まさかとは思うけど、ポー姉の自作自演って可能性もありえるか? オークションに行きたがってたからなぁ、コフ―」
しかし、それならドアや窓を壊すのは不自然だ。
あの脳天気な性格から、「迷惑かけちゃってごめんなさい! オークションが終わったら戻ります。 ポー」などと書かれた置き手紙くらい、残しそうなものである。
「……ポー姉が幻影旅団に接触したのは、昨日だったよな」
広場で戦闘した後、無茶なオーラの使い方をしたポーは気を失ってしまったらしい。
幻影旅団……全員がA級首の犯罪者集団。それを相手にたった一人で立ち向かい、無傷で生還するあたり、流石であるとミルキは思った。
イルミの話だと、蜘蛛の頭は再びポーを狙ってくる可能性が高いという。
陰湿で粘着質で、気に入った物は手に入れないと気が済まないゲス野郎――何故、兄が蜘蛛の頭の人格についてそこまで詳しいのか気になるところだが、あえてつっこまなかったミルキである。
イルミは昔から要領がいい。
親の言いつけをまじめに守っているようで、するりとその目をすり抜ける狡猾さに長けている。
今回の、ポー姉との婚約が良い例だ。
とにかく、その蜘蛛の頭が再度絡んでくる前に、ポーを無事に国外へ逃亡させる――イルミ自身はヨークシンに残り、シルバ、ゼノと取引の後、蜘蛛に「うちの嫁に二度と手を出すなボケ」とお灸を据え、釘を刺しに行く。
その予定だった。
「昨日の今日だからなあ……でも、あのホテルのセキュリティーは一流のはずだぜ? いくら蜘蛛でも……いや、だから蜘蛛だって可能性も捨て切れねぇか――とにかく、兄貴に連絡しとかねぇとコフ-!」
ゾルディック家専用通信機。
緊急の場合のみにおいて、仕事中であっても連絡を取り合うことの出来る、いわば家族用携帯。
しかし、イルミの番号にかけてみたものの、潜伏中であるのか着信が拒否されてしまった。
続けて、シルバの番号へ。
こちらは、すぐに繋がった。
『――ミルキか』
「親父、ポー姉の姿がホテルにない。蜘蛛に浚われたか、自作自演の逃亡か、二つの可能性が考えられる。どうしらたいい?」
『……そうか。前者の可能性が高いな』
シルバの声は機械的で落ち着いている。
幼い頃は、どこまで冷酷無比なのだと怖れもしたが、今ではこの冷静な声がありがたいと思うことも多い。
今回のような非常事態では、特に。
『イルミには知らせたか』
「いや……潜伏中なのか、拒否された」
そうか……と、思案気な返事の後、少し間があった。
そして、ややあって告げられた言葉にミルキは絶句した。
『このことは、イルミには伝えるな』
「なっ!? 何でだよ、コフ―!! 蜘蛛に連れ去られたって言うなら、非常事態だろ!? 殺されたらどうすんだよ、コフ―!」
『ミルキ』
どこまでも冷静なその声音が、冷静になれ、と命じてくる。
「で……も、何でだよ、イル兄に伝えるなって……だって」
『仕事中だ。この後も数件たて込んでいる。今、あいつを外されるわけにはいかない』
「――っ!」
『ポーの事は、こちらで手を回す。いいか、“イルミには伝えるな”。これは命令だ』
「……了解」
通信を、切った後。
ミルキは椅子に腰掛けて、深く息をついた。
親父のあの声は本当にやっかいだ。
こちらの言っていることが、ことごとく子供じみていると思えてくる。
何が正しいのか、分からなくなってくる。
その時、ふと漂ってきたのは出汁のきいた海鮮の香りだった。
机の上に置いたままになっていた、作りかけのカップラーメン。
蓋には“パドキア海洋研究大学特製海鮮ラーメン”の文字と、4つの円を重ね合わせた研究室のシンボルマーク……ちょっと、バイオハザードマークに似ている気がするのはおそらくわざとだろう。
仕事柄、パソコン前に座りっぱなしのミルキは普段、ろくな食生活がおくれない。
だから、ついついサプリメントやインスタント食品に頼ってしまう。
だったら、栄養バランスのいいインスタント食品を食べればよいのだと、特製のカップラーメンを作ってくれたのは、かの義姉だった。
お湯を注いで30秒で食べられる。
しかも、30分置いておいても伸びない麺は、特許を取って企業に売り込めば、巨万の富を築けるだろうとミルキは思っている。
しかし、ポーは笑うだけでそれをしようとしない。
なによりも、社会から注目されることをよしとせず、功績をあげても自ら公表はしない彼女。
いつでも、研究費に頭を悩ませているくせに。
しかし、けして愚かではないのだ。
金や名声と引き替えに、失う自由の価値を知っているだけだ。
自由で奔放で、臆病なくせに海のこととなると人が変わったかのように大胆不敵に行動する。
本当に、何をやらかすか分かったもんじゃない――目が離せない。
イルミがポーを好きになった理由が、今なら自分にも分かる。
彼女が家族になるのだとしたら、それを見捨てることは、家族をなにより重んじるゾルディックの意思に背くことだ。
食べ頃のラーメンを最後のスープの一滴まで飲み干した後。
ミルキは、彼個人の携帯電話に手を伸ばした。
「イル兄には伝えるな、って命令だったよな。だったら――」
確か、あいつらがヨークシンにいるはずだ。
目当てのゲームを取引に出されるなら、それはそれでいい。
けれど、なんとなくあいつらは、取引なんて持ちかけることもしないだろうとミルキはほくそ笑む。
数回のコールの後、電話口から聞こえてきたのはちょっと嫌そうな少年の声だった。
『ミルキ……? 何の用だよ、最初に言っとくけど仕事なんかしねーからな!』
「……わかってるよ! コフ―!」
間に合ってくれ。
どうか、間に合ってくれ。
家を飛びだした三男に事のあらましを伝えながら、ミルキはこのささやかな反逆行為をどこか楽しんでいる自分を感じていた。