「ぅあああああああああなああああああああああああたあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――ッッ!!」
深夜過ぎ。
泣く子も黙る暗殺一家、ゾルディック家の当主、シルバの寝室へと続く長い廊下を、怒髪天を衝く勢いでもって全力失速してきたのは、そう。
御大シルバさえも恐れおののくかの奥方、サイコマザー・キキョウ、その人であった。
今日は、たまの休み。
久々に取れた休日の夜更けを、ビール片手にカウチに身を横たえ、テレビのスポーツ番組なんかを観てくつろいでいたシルバは、分厚い扉越しに響く怒号と足音に顔をしかめた。
足音は近いが、まだ間がある。
今なら、窓から――
「シルバ――ッ!! 逃げたりしたら一週間ビール抜きですからね―っ!!」
「……」
チッ、と舌打ちひとつ。
カウチから身を起こし、胡座をかいた所で扉が開いた。
ナイトガウン姿のキキョウである。
上品なフリルに、涼を誘うすみれ色のオーガンジー。
抜けるように白い肌が、走ってきたせいで汗ばみ、ほんのりと上気している。
長身の上、スタイルの良い彼女。
首から上でビカビカ光るメカニカルなゴーグルさえなければ、ちょっとそそられていたかもしれない。
そんな自分に、シルバは深く嘆息した。
「なんだ、夜更けに騒々しい」
「それはこちらのセリフです!! 兎に角、これをご覧になって!!」
言うが早いか、目の前に突きつけられた分厚い書類に、ザッと目を通し、
「――今朝、ゴトーを通じて報告があった。ミルキのダイエットに必要な費用をポーに振りこんでやったんだが……その使い道がコレか」
紙の束は大半が請求書である。
それ以外は契約書類。
――マーレ諸島を有するパドキア共和国、並びに自治区への借入れ契約書。
土地使用契約書。
島の個人所有、個人開発、特別指定生物の移植培養及び研究施設設立における諸々の承認書、許可証、及び委任状。
「あのクソ小娘、ミルを出汁に島を買い取って研究施設を建てるだなんて!! ああああああああああクソ忌々しいこと!! 前々から怪しいと思っていたけれど、イルったら、やっぱりあの娘に騙されているのよ!! このままでは、このゾルディック家の資産が食い荒らされてしまいますっっ!!」
「……」
「シルバ!! 今朝の話はわたくしの耳にも入っています。『ミルキを痩せさせろ。必要経費はうちで出す』……全く! 今回のことは貴方に否があってよ! 小娘だと油断して、こんな契約を交わすからです!! 事は一刻を争います、これ以上の散財を阻止するために、今すぐわたくしにお命じになって!! あのクソ女、ぶっ殺してやるわ――っ!!」
「まあ、待て」
その薄手の衣装のどこに隠していたのであろうか。
大型の六砲身ガトリング銃を、小型拳銃さながらに振り回してみせるキキョウに手を伸ばし――腰に腕を回して、抱き寄せた。
「あ、貴方っ、今はそんな場合ではな――んうっ!?」
「……」
「……」
「……」
「……っ、ズルいわね。こんなときばかり」
「ふふ」
そうか? とニヒルに笑んで、シルバは寝台に押し倒したキキョウの顔から、ゴーグルを取り上げた。
物騒な兵器は、部屋の隅に控える愛犬に向かって放り投げる。
鋼鉄製の砲身が、犬用ジャーキーのように噛み砕かれ、引き裂かれていくさまを眺めつつ、
「ポーのことだ。なにか、考えがあるんだろう」
「貴方は、あの娘に甘すぎます!!」
「かもしれん。だが、ポーはあの通り天真爛漫だが、決して愚かではない。目先の利を求めるが故に、俺達全員を敵に回す。そんな選択肢を選ぶとは思えん。第一、あいつは臆病だ」
「しかし……! どう考えても、ミルのダイエットごときに島ひとつでは割に合いませんわ!」
「それは、俺の落ち度だな」
興奮冷めやらぬ顔のキキョウの、その細い顎をとって、もう一度口づけてやる。
「次から気をつける」
「……っ、だから、それは卑怯だと――」
「許せ、キキョウ。ポーのことは、もう少し様子を見る」
「……!!」
するり、とすみれ色の薄い生地の中にシルバの指先が滑り込んだ――そのとき。
「取り込んでおる所、申し訳ないんじゃが」
「ぅ親父っ!?」
「お父様ったら!! 嫌だわ、ノ、ノックぐらいして下さいませ!!」
いつの間にそこにいたのか。
パジャマ――もとい、甚兵衛姿のゼノがいた。
顔を赤らめつつ、そそくさと立ち上がるキキョウに、「いやー、悪い悪い! ドアの外から何度も声をかけたんじゃがのー! だっはっは!」などと、飄々と笑い飛ばす実父の姿に、ぞっとする。
気配など、一切なかった。
「……俺も、まだまだ鍛えが足りねぇな」
「そうだとも、鍛錬せい! 生涯現役!! ――っと、それどころではなかったわい。ついさっき、ポーからメールが届いたそうじゃ。ぷりんとあうとしたのをゴトーから預かってきた」
バサ、と手渡された、これまた分厚い書類にザッと目を通し。
「――事業報告書。及び、ミルキの体内データか。あのしぶとい脂肪をたった一日で十キロ近く落とすとは、流石だな。これなら、3日後の催しにも間に合うだろう」
「事業内容も面白いぞ。工業排水で悩む各国の大企業からの融資も徐々に集まっとるそうだから、契約内容に不服があれば返金してもいいそうだ。“頭金がどうしても足りなかったんです! この島も、こちらに必要な研究施設さえ確保させていただけたら、あとは好きに使って頂いて構いませんので! 本当にごめんなさい~!!”だそうじゃが、どうする?」
「そんなことだろうと思っていた……金のことは構わん。好きにさせるさ」
くつくつと、喉の奥で笑いを堪えながら、シルバは飲みかけのビールを手にとった。
「文句はないな、キキョウ」
「……ええ」
一応は、と付け加え、
「しかし、考えて見れば南の島とは都合がいいかもしれないわね。例の晩餐会まであと三日――ふふふ、この時のために兼ねてからリストアップしておいた各家には、すでに連絡を入れてあります。あの娘が本当にイルミの妻に相応しい器であるか。そして、この家に嫁ぐ真の覚悟があるか、じっくりと試させてもらうわ……!!」
オーッホホホホホホホホホホ!!!!
「……ほどほどにしとけよ」
止めはしねぇが。
ボソリと呟き、シルバはすっかり温んでしまったビールを飲み干した。