「一回だけ! ちょっと着替えてちょーっと写真取らせてくれるだけでいいんだってコフグホアッ!!」
メキッ、と、黒いタイツに包まれた細身の右足が、分厚い贅肉を蹴りぬいてあばらを軋ませる――これで六本目だ、と、店の玄関先から道路をのりこえ、壁際までふっ飛ばされながらミルキは思った。
だがしかし、人間のあばらは左右合わせて二十四本もあるではないか。
ならばまだ、チャンスは十八回もある。
ここで諦めるわけにはいかない――ふらつく足に叱咤して、立ち上がりざまにもうひと押し。
「……っい、一回だけ……チー、ほんとマジで頼む……! 失恋戦隊ミレンジャー、ミレンブルーのコスプレプラス、花嫁衣装を……!!」
「しつこいわ――っっ!!」
場所は、マーレ諸島本島ラブハリケーンアイランド、中心街。
その一角にそびえ立つ、“~花嫁衣装からトコスプレ衣装まで、あなたの夢を全て叶えます~ときめき☆ブライダル写真館”正面入口にて。
ゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシゲシッ!!
「ゲホアアアアアアアアア――ッ!!」
ミルキ・ゾルディック、十九才の早春であった。
「このデブのオタクのドヘンタイ!! つきあっとれんわ! 先に帰る!!」
真っ黒なコートをひるがえし、チルノは町のメインストリートを大股に歩いていく。
ココヤシの街路樹に、沿道には真っ赤なハイビスカス。
行き交うカップルたちは皆、トロピカルカラーも鮮やかなアロハシャツや、パレオをなびかせていく。
どこを見渡しても常夏ムード満点の街中で、全身黒尽くめのチルノの格好は目立ちすぎた。
やれやれと舌打ちして、ミルキは再び立ち上がり、服についたホコリを払って後を追いかける。
「待てよコフ―!」
「ついてくんなデブオタク!!」
「ビスケが言ってただろ! この島ではカップルで行動しないと即行でしょっぴかれるって!」
「……ぐっ!」
ピタリ、と立ち止まる厚底ブーツ。
振り向いたチルノの口元はへの字である。
フードの影から注がれる視線は、こちらを射殺さんばかりだ。
職業柄、というか家柄的に殺気を向けられることには慣れっこのはずのミルキだが、相手が可愛い女の子……というのは初めてで、そのためにちょっと狼狽えた。
「そ、そんな目で睨むなって……! わーったよ、もう無理強いしねーからさ。機嫌直せって。なんか美味いもんでも食うか?」
「……」
ちょうど、ほど近い場所に小さな港がある。
時刻は三時、ちょうど、小腹のすいてくる時間帯に合わせてか、マーケットが開かれているようだった。
鮮やかな露天の天蓋や、派手なのぼりが目を引いた。
きゅううーっと、小さな音。
チルノのほっぺたが若干、紅い。
「ミ、ミルキのおごりやからな!」
「へーへー、言うと思ったぜ。出してやってもいいが、条件がある」
「はあ? 冗談やろ、そんなんさっきの侘び代に決まっとるやん」
「なら、どれか一つだけだな」
好きなの選べよ、と指し示された指の先――に、並んだご当地グルメ、ご当地スウィーツの数々を前に、チルノは息を詰まらせた。
「ズ……ズルイで! この卑怯者おお!!」
「バーカ。俺んちは何事もギブアンドテイクが基本なんだよ! 俺がゾルディックなのはポー姉から聞いてるんだろ。食いたきゃ稼げ。家じゃあ、働かない奴にはパン一枚だって食わせてもらえないんだぜコフー」
「……」
「なんだよ」
「……いや、ちょっと意外やなーと思って。ゾルディック家言うたら超一流の暗殺一家やろ。家業でボロ儲け、何不自由なくぬくぬくと暮らしとるもんやとばっかり思っとったわ」
「アホか! 毎日毎日生きるか死ぬかのせとぎわだらけだっての!!」
パパもママも、殺して死ぬような奴は平気で殺そうとするからな、と青い顔で力説するミルキを、チルノはなにかを考えるようにじっと見つめた。
「な、なんだよ」
「条件て何よ」
「ああ……コスプレと写真は諦めるからさ、せめてその暑苦しいコート脱いで、南国らしいドレスとか着てくれよ」
「それは出来へん」
「なんでだよ! いいじゃん、見かけだけは可愛いんだからもったいねーって!第一、そのままじゃ熱中症で倒れるぞ、お前!」
チルノの頬が紅い。恥ずかしさのためではない。小さな顎から、さっきから汗が雫になって滴っている。
それでもチルノは、フードを取ることすらしないのだ。
出来へん、と、彼女はもう一度重ねて首を振った。
独特の訛りの混じった、いつもどおりの口調だった。
「これを脱いだら、人を殺してしまうねん」
「え……っ」
「念の毒針の制御、チーは上手く出来んときがある。怒ったり、我を忘れるようなことがあったら最後、止められん。このコートには、チーのオーラを相殺させる特殊な念がこめてあるんよ。そやから、脱ぐわけにはいかへん」
「へー、便利な能力なのに勿体ねーな」
ミルキとしては率直な感想だった。チルノは驚いたように沈黙していたが、やがて、その肩が小さく震え出した。
「便利とちゃうわ……」
「――っあ」
まずい、とミルキは焦った。
もしかしたら泣かせてしまうかもしれないと。
性格は全くと言っていいほど好みではないが、何と言っても彼女の容姿は愛してやまないミレンブルーに瓜二つなのだ。
そんな彼女を泣かせ……いやたしかに、泣き顔も見たい気がするがしかし、それにしたって、自分のせいで泣かせてしまうのはいけない。
「ご、ゴメン! その、職業柄、つい出ちまったんだよ!悪かった、俺、家族以外の奴と喋ることって滅多にないからさ……」
こういうときは謝るに限る。
女性経験なんて皆無だが、今まで星の数ほどの恋愛シュミレーションゲームをクリアーしてきたミルキである。
ゲーマーとして、全コンプは当たり前。どんなに好みでない女だろうが、手強い女が相手であろうと、あの手この手で手中に収めてきた。
むろん、二次元での話であるが、怒らせた時と泣かせた時の対処法は、統計的に考えても謝るに限る。
現に、うちのパパもそうしている。
「ゴメン! ほんっとゴメン、頼むから泣くなよ、な?」
「……」
「食べたいもの全部おごってやるから!!」
「ええで!」
けろり、とチルノは顔を上げた。
フードの影から覗いた顔は、泣いているどころか、満面の笑みだ。
眦に涙まで浮かべて。
「……っくっくくく……あははは!! 便利て……! そんなこと今まで言われたことなかったわ。確かに、殺し屋から見たらそうやんな……あー、おっかしー!」
「な、なんだよ!泣いてないのかよ!!騙しやがったなテメエ!!」
「ゴメンて。それに――ありがとーな」
「な……っ、なにがだよ。言っとくけど奢らねーぞ、さっきのは無効だからなコフー!」
「ちゃうちゃう。普通に接してくれて、ありがとう」
「……!」
ふわり、と一瞬だけ。
いつでもムッツリとして不機嫌そうな彼女の表情が、花の蕾が綻ぶように、やわらかく微笑む。
不意打ちだった。
これはもう、どうにも防ぎようがなかった。
「なに固まっとんの。ほれ、お腹空いたしとっとと行くで」
「お、おう……」
パタパタとせわしなく駆けていく足音を追いながら、まあ、ちょっとくらいなら奢ってやってもいいか、とそんなことを考えた。
***
「よーし! お次はアジサンドいくでー!」
そして5分後、さっきの気持ちを後悔した。
「食い過ぎだコフー!! 俺より食ってんじゃねーか! それでなんで太らねーんだよ!!」
「研究室にこもっとる時はほとんど絶食しとるからな。食べられるときに食いだめるのは研究者のキホンやで。まだまだ序の口や」
まふまふと、自らの顔ぐらいの大きさのある焼きたてのアジサンドをかぶりつきながら言われると、ため息が出るばかりだ。
「研究って、そういやお前、毒研究じゃかなり名のしれた大物だよな。『毒神チルノ』」
「――っ!」
「バレてないと思ってたのか? イル兄もとっくに知ってるぜ」
「……それ、ポーちゃんから聞いたんか」
「いや、俺が調べた。俺達、他人から命を狙われることが多いからさ、接触を持ってくる人間の素性は逐一調べねーとダメなんだよな、コフー」
「……はあー、最初から知っててあの態度やったんか? そんなら、チーが過去に起こした無差別大量殺人事件のことも知っとるんやろ。普通、もうちょっと怖がったり、避けたりとかせーへんかあ?」
おっちゃんポテト追加ー、と遠慮の欠片もなく頼んだフライドポテトを、鷲掴みで頬張る。同じものを、ミルキも注文した。
「バーカ、ビビるかよ。俺を誰だと思ってんだ、ミルキ・ゾルディックだぜ?少なくともお前の殺した人間の倍は殺ってるね!」
「家の仕事でやろ。チーは違う」
パクパクと、目の前にある食べ物を無心に頬張り、半ば無理矢理にそれを飲み込んで、彼女は言った。
フードの作る濃い陰影の中、二つの瞳が血溜まりのように光る。
「生きるために殺したんとちゃうねん」
「……」
逸らした視線を、ピンク色のパレオを着た少女が通り過ぎていく。
栗色の髪に、赤い石のついた髪かざり。
花の形に彫ったあれは珊瑚だろうか。もしあれをチルノがつけたら、白い髪に映えて綺麗だろう。
なあ、とミルキは切り出した。
「修行しろ」
「は?」
「は、じゃねーよコフー。修行しろっつーの。俺と一緒にビスケのおばはんのところで、明日から早速開始な」
「し、修行なんてせんわアホ! 万が一念が暴発してみい、チーの本気の毒は、いつもみたいななまっちょろいもんと比べ物にならへんで!?」
「あのおばはんがそう簡単に死ぬかよ。俺だって、赤ん坊の頃から毒慣れさせられてるから平気だ。いざとなったらポー姉もいる。逆を言えば、物騒なお前がきちんと修行できる機会なんて、これを逃したらもうないんじゃねーの?」
「……」
「ちゃんと自分で制御できるようになれ。その上で誰かを殺したら、その時は、お前は人殺しだ」
「……わかった」
こっくり、頷いたチルノの頭を、フード越しに撫でてやる。
「で、その暁には晴れてミレンブルーのコスプレ写真をぎゃあああああ――っ!」
「せーへんわ、アホミルキ!! 今、ほんのちょっとだけやけどアンタのことを見なおした気がしたのに……見間違いやったわ!!」
「は?なんでだよ、見なおせよ! ってか見直すってなんだよ!!」
ワイワイギャアギャアと、本日何ラウンド目になるかもわからない痴話喧嘩を繰り広げていたときである。
ふいに、背後から肩を叩かれた。
「やっぱり!聞いたことがある声だな~とおもったら、ミルキさんじゃないですか!」
「え?」
目立つオレンジ色の髪の女性だった。歳はミルキとさほど変わらない。見覚えはないから、初対面のはずだ。
良く日に焼けた素肌に、薄いシャツ一枚。
下はかなり短めのショートパンツで、健康的なふとももがすらりと伸びている。
母親と執事をのぞけば、実物の女性との接点などないに等しいミルキには、少々刺激が強い格好だ。
「だ、誰だ? なんで俺の名前まで知ってるんだコフー……!」
「え?やだなあ、いつもお電話でやりとりさせてもらってるじゃないですか! って言っても、お会いするのは初めてですよね。あたし、トモチカです。改定映像の画像解析でお世話になってる……あ、そっちの人はチルノさん、でしたっけ?先日、デントラ港でお会いしましたよね!」
「覚えとるで。ポーちゃん溺愛の教え子三人組の一人やな」
いつの間に買ったのか、ソーダ片手に頷くチルノの言葉に、ようやく思い当たる。
「ああ、そういや、声に聞き覚えがあるぜ。それにしても、なんでこんなところで会うんだ? ポー姉になんか用か」
「いえいえ! 夏休み中のアルバイトですよ。先生が毒珊瑚の培養に使用される機材の残りを搬送するついでに、ビーチの監視員とか、シュノーケリングのインストラクターとか、色々やってます。あ、今はここの、ソフトクリームの売店のバイト」
快活に笑って、どうぞ、と差し出された緑色のソフトクリームを受け取った。
「ワカメソフトです。コンブ味もあるんですよ。うちの大学でこの夏開発されたばかりの新作で、デントラでも爆発的人気の幻のスウィーツです」
「……ポー姉の大学って、ほんとに色々やってるよなコフー」
「全ては研究資金を稼ぐためです。あ、そうそう、実はちょっと気になるものを見たもので、先生にお伝えいただけるとありがたいんですが」
「気になるもの?」
はい、と頷いて、トモチカは少しだけ声を潜めた。
「小型の海洋私用船なんですが……デントラ沖と、この島の近海でそれぞれ10艇以上、いずれも、エンジン音を消すことのできる特殊な高速艇ばかりです。しかも、どの船も型がバラバラなんですよ。船が船だけにレジャーや釣り用とは思えないんですが、軍事用でもなさそうで――」
「……ふーん。それは、たしかに気になるな。分かった、一応伝えとくよ。でも、それでポー姉がそっちに帰るって言い出したら責任持って止めてくれよ? バカンスがふいになったらイル兄がどれだけ怒るか想像もつかねーぜ、コフー」
「その点は、お任せを。大丈夫です、デントラには近海の治安を守る精鋭部隊がおりますので。ポー先生には、引き続き休暇を楽しんでくださいとお伝え下さい」
では、と一礼し、トモチカはソフトクリームショップへと戻っていく。
ワカメソフトなんて、シュールなのぼりの文字にも関わらず、長蛇の列だ。
確かに、アミノ酸が豊富な海藻を使用している分、コクがあって美味い。
「……ミルキ」
「なんだよ、やらねーぞ? ……おい、どうした、チルノ」
白い彼女の手のひらが、ぎゅっとミルキのシャツを掴んでいた。
掴んで、ひっぱる。
ものすごい力で。
「おい、どうしたよ!」
「調べて……ミルキ、島に戻ってすぐに調べて欲しいことがあるねん……!」
「報酬――」
「コスプレでもなんでもしたる!! 修行もするし、写真も撮ったるから。今から言うチーの仕事、手伝って……!」
「……わかった」
なんだか分からないが、ただごとではない。直感でそう理解したミルキは、ひとまずは島へ戻るために小型ボートの貸出所へと急いだ。