イルミが、私を見ている。
真っ暗な闇を湛えた、けれど、曇りのない眼差しが、群衆の波を越えて私を見つめている。
明らかな表情はなかった。
ただ、彼にしてはとても珍しいことに、あえての無表情ではなく、どんな顔をしていいかわからないという困惑を感じた。
その唇が、ゆっくりと動く。
驚きと、疑惑の入り混じった声音だった。
「……ポー?」
こくん、と頷く。
「……おまたせ。イルミ」
どうして来た、というように、その目が真ん丸になる。
イルミの瞳はわなないていた。
……やっぱり、来るべきではなかったのだろうか。
胸を過る思いに、心臓が潰されてしまいそうだ。
私には、まだ分からない。
イルミが今、どんな思いでこの場に立っているのか。
どんな思いであんなことを言ったのか。
分からない――分ることが怖い。
イルミに会って、彼の本心を知ってしまうことが、怖くてたまらない。
――でも。
それでも、私はこの場にいたかった。
イルミの婚約者候補の女性たちが集う、この場所に。
ゾルディック家に認められた女性たちだけが、出席を許されるこの場所に。
暗殺者ではない私にも、ここにいる資格があると……そう、ゾルディック家が認めていてくれるのならば。
私は、この場に立っていたかった。
「どうして、来たの」
イルミが尋ねる。
「どうして、来たりしたの……」
重厚な武器をかまえるシィラを前にしながら、イルミは完全に臨戦態勢を解いていた。
ダラリ、と両腕を垂らしたままで、呆然と佇むばかりだ。
どうして、という、その言葉に少しほっとした。何をしに来た、ではなくて、どうして来たのかと聞かれたからだ。
でも、単に動機を尋ねられたのか、ここに来たこと自体を咎められているのかまでは読み取れない。
だから、私は自分の好きな方で解釈することにした。
「だって、パーティーは6時からだって言われてたじゃない。ごめんね、ちゃんとしたドレスって着たことなかったから、ビスケさんに手伝ってもらってたら遅くなっちゃって――」
「そういう、意味じゃないよ」
イルミの目が、すうっと細まる。
「解ってるんだろう……どうして来たの……シィラに脅されて、母さんの企みには気がついていたんじゃないのか。なのに、どうして来た……!」
「……だって、私はイルミの婚約者だから」
一変して厳しさを含んだイルミの言葉に、知らずと口元が綻んでいくのを感じていた。
怒ってくれている。
イルミは私のことを、心配していてくれているんだ。
「だから、行くかなきゃいけないって、思ったの。私ね、やっぱり皆に認めてもらいたいんだ。私にならイルミを任せて大丈夫だって、イルミの家族にきちんと思ってもらいたいの」
「……本当に、解ってるの。殺し合いだよ?」
わななく、イルミの目。
その目を見つめて、深く、頷いた。
「うん」
「……!」
ザワリ、と来賓達がざわめく。
緊迫した場の雰囲気をぶち壊し、突如現れたイレギュラーである私を、どうするべきか思案している様子――それでも、美しく着飾った女性たちの中には、その手に暗器を光らせるものもいる。
そんな場の混乱を制したのは、たったひとつの声だった。
「待て」
「……シルバさん」
「ポー、ここに来い」
くい、と指一本で招かれる。途端、それまで周りを埋め尽くしていた人の群れがパックリと割れ、道が作られた。
暗殺一家ゾルディック、当主シルバ・ゾルディックへとつながる道が。
一歩一歩、確かめるように進んでいく私を、青い二つの眼光はどこか面白そうな光を湛えて見下ろしていた。
漆黒の式服に身を包んだこの人の正面に、挑むように立つ。
「……話は聞いていたな。参加の意志はあるか」
「はい」
「だそうだ、キキョウ」
「ポ――――ッ!! あれほど時間には遅れるなと言っておいたのに!! イルミといい貴女といい、この会を一体なんだと思っているの!?」
ドレスは漆黒の総レース、揃いの帽子には深紅の羽飾りも艶やかなキキョウさんが、手袋に包まれた人差し指をビシリと突きつける。
白い、石膏のような胸元に、ピジョン・ブラッドの深い宝石が妖しくも美しい。
「そ、それに関してはすみませんでした……ええと、色々と踏ん切りがつかなかったもので」
「相変わらず、優柔不断だこと! そんなことでうちのイルミの婚約者になれると思ったら大間違いですからね!!」
「キキョウ」
キロリ、と青い眼光が向けられる。途端、むすっとして口をつぐむキキョウさん。
こういうやりとりは、いつものゾルディック家のまんまで安心する。
「ええっと、それで……イルミ争奪戦でしたっけ? それって、具体的にはどうすればいいんですか? ゾルディック家のことですから、試すからにはきちんとしたルールがあるんですよね」
「当たり前です! これは我が家に伝わる正式な儀式。ただの無粋な殺し合いではありません。ポー、事前に、貴女に預けてある指輪がありますね!」
「指輪……はい。天空闘技場の一件の後で、キキョウさんが嵌めなさいってイルミに渡した、この指輪ですね」
言いながら、左手を見る。
黒と銀の二匹のドラゴンが対面から絡まり合っている、重厚な雰囲気の指輪。
あのあと、イルミと二人で何をやってもとれなかったのは、おそらく、何らかの念が込められているからだろうと予測はしていたのだけど――やっぱりそうか。
「その指輪は、ゾルディック家に嫁いだものの証。一度嵌めたら、嵌めたものが命を落とすまで外れることはありません。儀式とは、花嫁候補同士でその指輪を奪い合うことです。わたくしが、可愛いイルミのために厳選して厳選して厳選し抜いた蝶一流の暗殺名家の令嬢、100名が相手になりますわ!!」
ジャキッ、と、一斉に獲物をかまえるのは、誰も彼もが一流雑誌モデルや女優さんのように綺麗な女の人ばかりだ……!
そして、その中でも一際艶やかな、深紅のドレスに身を包んだシィラが進み出る。
彼女、いや、彼女たちから発せられる殺気が、私ただ一人に一点集中した。
「ポー!! 貴女が、ずうずうしくもイルミの花嫁になりたいというのなら、その指輪を守り抜き、力を示してみなさい!!」
「分かりました」
「ポー、駄目だ……!」
「イルミ」
すっと、イルミの言葉を片腕で制したのはシルバさんだった。
「お前は黙っていろ。重要なのはポーの意志だ」
「……っ」
「イルミ」
大丈夫、と私は笑った。
「大丈夫だから! 私を信じて」
「……ポ―」
「制限時間は、一時間だ」
他の横槍を許さない厳格な面持ちで――しかし、分るものだけに分る笑みを浮かべて、シルバさんは言った。
「フィールドはこの島全体。上空も可だ……ちなみに、周囲10メートルの範囲内なら、海中も使用して構わない」
「え」
「え……?」
その、なんだかとても意味深な追加内容に、私とイルミの視線がかち合った。
それって。
「うあなあたああああああああああああああああああああああああっ!! 貴方って人はどこまでこの馬鹿嫁候補に甘いんでしょう!! ダメです!! 空中はともかく、海の中は断じて認められませんわっ!! そんなことを認めたら、ポーは制限時間の間中、逃げて逃げて逃げまくるに決まっています!!」
「それを100人がかりで追って仕留められねぇ暗殺者なんぞ、嫁にはいらん」
「……っ!」
「ということだ。趣旨は理解したな」
「シルバさん……」
本当に、この人は……。
内心で深く、頭を下げる。
ありがとう、ごさいます。
そう、いつもなら、泣きながらそう言っていたに違いない。
でも、駄目だ。
「――ご配慮、ありがとうございます。でも、キキョウさんが認められないと言うのなら、今回ばかりはお言葉に甘えるわけにはいきません。それに……私はもう、逃げないと決めてこの場に来ました」
キキョウさん。
ゴーグルのライトを真っ赤に点滅させている、ゾルディック家の母に向き直る。
「今夜は決して、逃げないと約束します。それでこの指輪を守り抜いたら、そのときは――イルミの婚約者として、認めて下さいますか」
「勿論です!!」
「私が殺し屋でなくても?」
「くどい!! 出来るものならやってみなさい。そのかわり、一切の逃げ隠れを禁じさせてもらいますからね!!」
人差し指を突きつけて、声高に言い放つ――よかった。
この言葉を、聞きたかった。
「ポー、やめろ!!」
「シルバさん、ゼノさん、イルミをお願いします!」
言い放って前へ出る。
クロノグラフ付きの懐中時計を高々と天に差し上げ、キキョウさんの高音が、始まりを告げた――
「では、始め!!」