夕日が、空と海を紅く染め上げる。
世界は色を失って、ただ暗い闇の中へと沈んでいく。
闇に、血が滲むみたいに……。
「……やっぱり俺、夕日は苦手だな」
海月と見たときは、あんなに綺麗だと思ったのに。
俺は、あの日と同じ時刻に、夕日の臨める岬の展望台へ来ていた。
もしかしたら、海月はこの場所に来るんじゃないかと思った。
でも、夕日に誘われて集まった人間の中に、彼女の姿はなかった。
島に残っているはずのミルキからも、なんの連絡もない。
タイムリミットは六時。
もう、時間がない……。
「イルミ」
呼ばれた声に、振り向く。
しかし、そこに立っていたのは望んでいた人物ではなかった。
「シィラ……」
「ふふっ、どう? 似合うかしら」
見事に飾り付けた銀の髪が、夕日に赤く染まっている。シィラはイルミの前に進み出ると、艶やかな深紅のドレスをくるりと翻してみせた。
大胆に開いた白い胸元に、黒蝶を模したブラックダイヤのネックレスが羽根を広げている。
「そろそろ時間よ、島へ帰りましょう」
「会が始まるまで、あと15分ある。行きたければ、君一人で行くんだね」
「あら、ダメよ。あの娘が逃げた場合、私が貴方の隣に立てとキキョウ様から仰せつかっているのだから」
「逃げた、ね」
「あら、もしかして疑ってるの? 言っておくけれど、会が始まる前に手出しをすることは禁じられているの。殺しは勿論、監禁することもできないわ。だから、あの娘がパーティーに来ないということは、自ら望んで貴方の伴侶となる道を捨てて逃げたということ」
さあ、と差し伸べられた手が、強引に、俺の手を引いた。
「……離せ」
「嫌よ」
青い双眸が、真っ向から俺を見据えてくる。
しかし、殺気を孕む前ににこりと笑んだ。
掴まれていた手も、あっさりと離れていく。
「いいわ、なら、私も探すのを手伝ってあげましょうか」
「は?」
「そのかわり、六時を過ぎたらアウトよ。私はあの娘を見つけ次第、殺す。それが嫌なら、私に従いなさい」
「……」
俺は小さく息を吐いて、シィラの手を自ら取った。
海月。
もう、ダメだ。
時間切れだよ。
俺が黙りこむと、シィラは紅いルージュを引いた唇を愉快そうにつり上げた。
「今夜は楽しいパーティーになりそう。きっと、一生の思い出に残るわ」
――仕方ない。
こうなったら、できるだけ早くこの馬鹿げた催しを終わらせてやる。
だから、お願いだ。
どうか無事でいて――
***
夕日が、世界を紅く染めていく。
時刻は、六時。
十分前!
「最終調整完了!! 目標値クリアー!! よっしゃあああああああああああああっ!! 完成です、ビスケさん!!」
「……はあ~、新技の構想を聞いた時は、この子頭大丈夫かしらと思ったけど。まさか、本当にやってのけるとは思わなかったわ」
「あはは! 言ったでしょ、絶対にやり遂げて見せますって! はあ、はあ、でも、もうダメ……」
「ダメじゃないわよ! あんたの戦いはこれからでしょうが!」
呆れ顔の、でも、やり遂げた達成感いっぱいの目をして、我らが念の師範、ビスケット・クルーガーは人差し指をくるくるっと回してみせた。
「いでよ、クッキーちゃん! “桃色吐息”!」
おお!
これは初体験だ。念のエステティシャン、クッキーちゃんが、床に倒れ込んだ私の身体を、ピアノを奏でるようにマッサージ。
すると、全身を襲っていた疲労感は消え、底をついたはずのオーラがぐんぐんと沸き上がってきた!
「すごい! ばっちりです、ビスケさん!」
「なあーにがバッチリなもんですか。ちょっと、鏡見てみなさいよ。パーティーに修行服で乗り込んでいく乙女がどこにいくの! ほら、さっさとコレに着替える着替える!!」
「わっ!?」
バサッと、頭から被せられた柔らかい布地は、澄んだ南洋を思わせる、淡いブルーのナイトドレスだった。
「綺麗……すごく綺麗」
胸元には小粒の宝石があしらわれ、柔らかなシフォンを幾重にも重ねたドレープが足元へと流れ落ちている。
慣れた手際でドレスを着付け、髪まで結ってくれながら、ビスケさんは意味深に笑んだ。
「そのドレス、イルミがあんたにって」
「イルミが? でも、ドレスは絶対ピンクがいいって……」
「確かにね、でも、そのドレスを見た瞬間に即決だったわよ。絶対、アンタに似合うからって、それまでの主義主張なんか綺麗さっぱり吹き飛んじゃったわさ」
「……」
「ポー、ドレスの胸元にあるこの宝石。アクアマリンっていうのよ。アタシが初めてアンタに出会ったとき。この石を真っ先に連想した。ひとつは、アンタの持つ海のイメージ。そして、理由のもう一つが、この石がもっとも美しく輝くのは、太陽光の下じゃなく、むしろ、光の少ない夜だってことなんだわさ」
髪を結い上げ、顕になった両耳に、ビスケさんは特別よ、と目配せをして、小さなイヤリングをつけてくれた。
ドレスにある石と同じ、アクアマリンだ。
「闇の中でも、アクアマリンは決して自己の輝きを失なうことはない。だから、別名を“夜の女王”とも呼ばれているの。暗闇に迷ったとき、この石は、新たな希望の光をもたらす――宝石言葉は、『勇敢』。アンタに相応しいわ」
「……ありがとう、ございます」
「さあ、ドレスアップ完了! 行ってらっしゃいな。パーティーの開始まで、10分切ったわさ。急いだって、ギリギリよ?」
「はい。行ってきます! ビスケさん、本当にありがとうございました。この御恩は、きっとお返しします……!」
「それはどーも。でも、返す相手はアタシじゃないわさ」
「えっ?」
人差し指を突きつけて、いいこと? と彼女は真剣な眼差しをする。
「ポー。あんたは、ハンターになってまだ一年も経ってない。にも関わらず、目覚ましい功績を評価され、ハンターランクは星2つ。つまり、このアタシと同等のダブルハンターとして認められているのよ」
「そ、そんな、同等だなんて、私はただ好きなことをやってるだけで――」
「そう。今のあんたはそれでいい。でもね、海洋生物ハンターとしても、また、海洋研究学者としても、アンタを慕って、集う仲間は多いし、これからもきっと増えていく。そういう中に、才能の原石がいるはずよ。あんたには、彼等のうちに秘めたる才能をきちんと見出して、力として引き出し、磨き上げる。その手助けができる、そんなハンターになって欲しいんだわ。アタシや、他のダブルハンターのようにね」
「ビスケさん……」
「能力の成長要素を見極めて、伸ばす。アンタにはその才能があるわさ。でなきゃ、あの会長が特例を出してまで、協会にアンタの昇格を承認させたりしないわよ。自信を持ちなさい」
「わかりました。私、ビスケさんの恩は、必ず返します。教え子たちや、仲間の力を伸ばしていけるように、きっとなってみせます!」
「その意気、その意気! ま、それは今回の一件がきちんと片付いてからでいいけどね。期待してるわよー、超新星!」
パーンッ、と背中を張られ、
「うおっし! それじゃあ、行って来なさいな。健闘を祈る!!」
「はいっ!!」
扉を開けて、飛び出していく。
宵闇の迫る、町の向こうへ。
時刻は六時。
五分前――
***
「イルミイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ――ッッ!!」
「母さん、煩い」
桟橋にボートがつくなり、フリフリした黒いくす玉が俺とシィラに向かって転がってきた。
くす玉かと思ったら、いつも以上に着飾った母さんだった。
本当に、もう、親じゃなかったら首を飛ばしてやりたい。
「遅いわっ、一体今までなにをしていたの!? パーティーの開始時間は伝えてあったはずでしょう!? あら~、シィラさん! 貴女は相変わらず美しいのねぇ~!!」
「ご無沙汰しております。キキョウ様」
うやうやしく、完璧な作法で礼をするシィラを、母さんはゴーグルのライトをペカペカ点滅させて、うっとりと眺めている。
解ってるよ。
シィラが昔から、母さんのお気に入りだってことはさ。
眼の色も髪の色も、父さんと同じだし。
暗殺者としての技量も、念能力も申し分ない――一時は、俺よりもシィラの方が優っていたくらいだ。
体術で組まされて、泣かされもした。
まあ、ガキの頃の話だけど。
「さあさ、イルミ。早くコテージに行って着替えていらっしゃい! 皆様、もうすっかりお集まりになっているのだから!」
「分かった。じゃあ、シィラ。あとでね」
「ふふっ、あまり焦らさないでね……」
連れ立って歩いていく二人を見送って、俺は、足早にコテージへ向かった。
「ミル、いるんだろ」
「兄貴! 遅せぇよ! ポー姉は、まさか見つからなかったのか!?」
雑な絶を解いて、ミルキが二階からバタバタと降りてくる。
チルノも一緒だった。
「そのまさかさ。完全に俺を避けてるか、もしかしたら、花嫁候補の殺し屋に捕まっている可能性も考えられる。お前たちだけで、探せるか」
「イルミっち! そのことやけどな、きっと、その可能性は極めて少ない。何度か会場に潜り込んで、来客共の話を盗み聞きしとったんやけど、会が始まるまで互いへの手出しは一切禁じられとるらしいわ。“掟を破りしものには、死を”――って、散々いい含められとるみたいやで。ゾルディック家に嫁入りしたいって輩が、自ら第一印象ぶっ壊すような真似、せえへんと思うわ」
「……だとしたら、ポーは逃げたんだね」
「兄貴、それは――」
「シィラが、事前にポーに会ったって言ってたからね。彼女のことだから、いち早く危険を察知して逃げたんだ。俺に隠してたことは、きっとこのことだね。母さんに命を狙われているから、パーティーには出たくないって、そう言いたかったんだ」
「……」
「……よかった」
本当は、少し、寂しくて。
悲しかった。
でも、不思議と腹は立たなかった。
彼女の行った選択は正しい。
たった一人で、悩んで、悩んで、悩みぬいて、生き残るための選択をしたんだ。
自分の命を選んでくれた。
これから先も、俺と生きてくために。
「来なくていいよ、こんな馬鹿げた催しにはね」
「で、でもさ、そんなことしたら、ママはきっと一生、ポー姉のこと認めないぜ!?」
「別にいいじゃない。俺は、ポーが無事に生きてさえいてくれたら、他のことはもうどうでもいいんだ」
話しながら服を脱いで、リビングに用意してある式服に手早く袖を通す。
仕事服じゃないから、多少は動きにくいだろうけど、まあ、問題ない。
着替え終わって、改めて見ると、ミルキはまだ私服のままだった。
「何してるの、お前も出るんじゃなかったのか?」
「悪い。ちょっと、仕事が入ってさ。今から出かけなきゃならないんだ。詳細は兄貴にも説明したいけど、取り越し苦労だったら悪いから、事後報告ってことでコフー」
「仕事? 父さんには断ってあるんだろうね」
「当たり前だろコフー! ほら、もう六時だぜ。早く行ってきなよ、会場は島の反対側だからな」
「……ああ」
なにを隠してるんだ。
全く、どいつもこいつも。
苛つきながら、コテージを出て、執事たちの用意していた、会場への送迎用のホバーバイクに乗り込んだ。
そうだ、どうでもいい。
俺は、ポーさえ無事ならそれでいい。
彼女のために、彼女に危険を及ぼす可能性のあるものは、早めに始末しておかなくちゃね。
「……その点では好都合だったかな」
島の裏側へ回り込むと、私用艇の群れが海岸を埋めていた。
どれも、普通の船ではない。
エンジン音を消すことの出来る、特種な高速船ばかりだ。
工作船か、でなきゃ暗殺用。
この場合は後者……一体、どれだけの人数を集めたものやら。
会場は、海岸に張り出した形で設置されていた。
風除けに白い天幕が張られ、一見して、野外で行われる結婚式のようだ。
そこかしこに松明の火が焚かれ、色とりどりの花々が、艶やかにテーブルを彩る。
会場に足を踏みいれた俺を、柔和な顔をした人々が拍手で迎えた。
身につけているものから察するに、いかにも金持ちそうな奴ら。
女ばかりでなく、初老の男性や女性も多いのは、家族揃ってこの会に招待されているからだろう。
会場最奥に、俺の家族。
自然と人の波が動き、開けた道を進んでいく――そんな俺の隣に、いつの間にかシィラが並んで歩いていた。
裸の腕を、絡ませてくる。
「遅刻は厳禁よ? 暗殺者ならば、時間には正確にね」
「はいはい、わかってるよ」
「ふふっ、私も解ってるわ。ギリギリまで粘りたかったんでしょう? でも、とうとう来なかったわね、あの娘」
「……」
「逃げ延びさせて、後からどうこうしようとしたって、無駄よ。イルミ。ここでの婚約発表は、絶対なの。私の一家を含め、闇の家業に手を染める者達にとっては、これがゾルディック家の最終意志――私達は、それに従う決意をもってこの場にいる。だから、もしも、この場で認められなかった者が、貴方に近づこうものなら……分るわよね。一斉に牙を向むくわよ? きっと貴方の知らないところで、あの娘は死んじゃう」
「シィラ、君ってさ、いつからそうペラペラ喋るようになったの? 俺、物静かな女が好きなんだよね。死体みたいに」
「……はいはい、黙ってりゃいいんでしょ」
ふいっと、横を向いてしまったシィラを無視して、俺は親父の隣に並んで立った。
「イルミ」
「見ての通りだよ」
「そうか、残念だ」
どこまで本気かは分からないけれど、親父はそう呟いて、瞼を閉じてしまった。
ゼノ爺ちゃんは、複雑そうな顔をして髭を撫でている。
カルトに至っては、唇を噛み締めて今にも泣き出しそうだ。
この場で、唯一上機嫌なのは、母さんだけか。
馬鹿でかいダイアモンドがギラギラ埋め込まれた懐中時計を手に、ゴーグルのライトを点滅させていた母さんは、六時きっかりになったと同時に、マイクを引っ掴んだ。
「皆さま!! 本日はご多用の中、本席にご臨席賜わり、誠にありがとうございます……! そして大変お待たせを致しました、ただいまから、我がゾルディック家の長男、イルミ・ゾルディックの婚約発表――」
「ちょっと待って」
すぱん、とマイクの頭を切り落とす。
「なあに、イルミ!! お母様の邪魔をするんじゃありません! 貴方のためにやっていることなのよ!?」
「もう気づいてると思うけど、ポーはこの会に不参加なんだ。彼女が参加した場合、ここに集まった花嫁候補全員で滅多殺しにする算段だったみたいだけど、この場合ってどうなるの? ――ってことくらい、聞かせてくれないかな」
「それは――」
「簡単なことよ」
代わりに答えたのは、シィラだった。
執事から代わりのマイクを受け取って、朗々と言う。
「標的が枝分かれするだけの話。趣旨は変わらないわ。候補の中で、もっとも強く、最も殺しに適した女が、晴れて貴方の隣に並べるの。まあ、その場合、あの娘にかわって標的になるのは、私でしょうけど?」
ふっと、シィラがバカにしたような笑みをこぼした途端、それまで和やかだった会場全体の雰囲気が豹変した。
美しく着飾った令嬢達から噴き出す殺気に、シィラはますます笑みを深くする。
「あらあら、殺気立っちゃって見苦しい」
「なるほどね……じゃ、殺し合いってルールは変えないで、俺の花嫁を選ぶにいたって、俺から絶対的に譲れない希望が一つだけあるんだけど。追加していい? 父さんに母さん」
「ああ、好きにしろ」
「絶対的に譲れないこと……? 一体、なんなの、イルミ!」
シィラからマイクを受け取って、俺は一呼吸置いてから告げた。
「俺に殺せないくらい、強い女であること。この条件が満たせないなら、例え最後に勝ち残った女でも、嫁に捕るつもりはない」
「な……っ!?」
「なあんですってえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ――っっ!!」
予想通り、会場は騒然となった。
愉快愉快。
「ということで、かかってきなよ。順番は問わない。早い者勝ちだ」
タイを解き、窮屈な上着を脱ぎ捨てる。
そんな叫び声上げたって、もう遅いよ、母さん。
ここにいる全員――殺してやる。
「イルミ……貴方って人は」
「シィラ。君だって例外じゃないよ。俺に殺されたら、君は俺の嫁にはなれない」
「……!! ええ、それでいいわ。貴方って人は、なんて素敵なの!!」
――だよね。
シィラならきっとそう言うと思ってた。
本当に変わってない。
五年前も、こうして殺されかけたっけ。
シィラの身体から、凍てつくような冷気が立ち昇る。
殺気と、濃縮された強力なオーラが、彼女を包んだ。
「例えうっかり私が貴方を殺しても、愛してるわイルミ……!! 防腐処置を完璧に施して、一番のコレクションにしてあげる!」
「変わってないねー、昔と」
ゆったりとしたドレスの下には、凶器が埋まっている。
至近距離でぶっ放されたマシンガンの咆哮を、飛んでかわす。
そのとき――
「その選抜方法に、異議あり――っ!!」
決して、聞こえてはならないはずの、声がした。