「綺麗だよ、海月……」
明るい日の差し込む部屋の中、大きな一枚鏡の中に、ウエディングドレス姿の私がいた。
純白のタキシードに身を包んだイルミが、そっと後ろから抱きしめてくる。
薄いレース越しに、高鳴る鼓動が伝わって、私のものと重なった。
綺麗だ、とキスの合間に、彼は囁く。
「この日が来るのが、どれだけ待ち遠しかったか。ようやく、海月は俺だけのものになるんだね」
「イルミ……」
「どうしたの?」
くりっと首を傾げて、彼は俯いた私の顎を、そっと上向かせる。
「私、実はまだ自信がないの。私は暗殺一家の出でも、腕の良い暗殺者でもないのに、本当に、イルミが好きだってだけで結婚してもいいのかなって……」
「……」
「イルミ?」
重い沈黙がいたたまれなくて、顔を上げる――その瞬間、とん、と胸のあたりを突かれた。
「……え」
イルミの手が、私の左胸に突き刺さっていた。
手首のあたりまで、深く埋め込まれた手のひらが、体内で脈づくものを掴んでいる。
痛みはなかった。
ただ、彼に掴まれているその場所が、火で爛れるように熱い。
「イ、ルミ……?」
「俺も、前からそう思ってたんだよね。ゾルディックの嫁に、海月はふさわしくないんじゃないかって。ずっと、こうやって試したかったんだ。殺せるか殺せないか、試してみたかった」
「……っ」
イルミ、と呼ぶかわりに、喉にたまった血塊が吐き出された。
大量の血液が吐瀉物のように滴って、刺繍や、細かなダイアモンドが縫い付けられた真っ白な絹を汚していく。
クスクスと、楽しそうな笑い声。
涙でぼやけた視界を上げる――鏡に映っていたのは、イルミではなく、あのシィラだった。
その手には心臓。
イルミへの気持ちを気づかせてくれた心臓。
……いつでも、彼と同じ速度で脈打って、命を、刻んでくれていた……私の、大切、な……。
「私に殺されるようじゃ、ダメね」
青い双眸が、微笑む。
シィラの五指の爪が弓なりに伸び、小さな心臓は熟しすぎた果実のように簡単に引き裂かれる。
「やめ……て……」
やめて――
***
「海月!」
パン、と軽く両頬を張られた。
仰向けになった視界にイルミの顔。
彼の両手が私の頬を包んでいた。
「……あ、れ……イルミ……?」
「やっと起きた。おはよう」
「おはよう……」
返事をした瞬間に、ぐずっと、鼻が鳴る。
瞬きをすれば、零れた涙が頬を伝っていった。
パジャマの袖も濡れているし、枕カバーまでぐっしょりだ。
「私……なんでこんなに」
手の甲で目をこすりながらむっくりと起き上がると、ベッドサイドのイルミが背中を擦ってくれた。
ここは、ゾルディック島にある廃墟になったコテージの一室だ。
まだ使えそうなのを、研究室と宿泊施設に改装して、島に滞在中はその一つをイルミと一緒に使っている。
そうか、昨日は帰ってからすぐに寝ちゃったんだ……。
「大丈夫? 朝方からずっとうなされっぱなしだったんだよ。いくら呼びかけても起きないから、焦ちゃった」
「ほ、ほんとに? 嫌だなあ……夢で泣くなんて子供みたい」
「泣くほど怖い夢を見たの?」
どんな夢、とイルミが首を傾げる。
その仕草に、朧気だった夢の断片が記憶として引き出されそうになり、慌てて首を振った。
嫌だ。あんな夢、二度と思い出したくない。
「海月?」
「……えっと、なんか嫌な夢だったんだけど、よく覚えてないや」
「そう」
えへへ、と笑って誤魔化すと、イルミはちょっと困ったように瞬きをして、私のおでこにキスを落とした。
「昨日、やっぱり何かあった?」
「昨日?」
「そう。俺と一緒に宝石店に行った後から、様子が変だっただろ」
「……」
気づいてたんだ。
それはそうか……ただでさえイルミは勘がいいし、あの後は食欲もろくにわかなかったから、ビスケさんにまで心配されたもんね。
なにもないよ、と私は言った。
「ほんとに、ちょっと疲れちゃっただけ。だからあんまり心配しないで? 今はお腹も減ってるし、美味しいお魚食べたら元気になるよ」
「それならいいけど」
ひょいとベッドを降りて、シャワールームへ行こうとした私の腕を、急に、強い力で掴まれた。
そのまま強引に引き寄せられ、耳元にイルミが囁く。
「海月……あんまり、俺に隠し事しないでね」
「……っ、し、してないよ、何も」
「嘘だ」
イルミの双眸がすうっと眇められる。
「俺に嘘をついてまで、隠さなきゃいけないことって何?」
「……っ」
掴まれている腕が痛い。
人の言動から真偽を読み解く術を、幼い頃から徹底的に叩きこまれている彼だ。
私の下手くそな嘘なんて、言った瞬間にバレることはわかってる。
短い付き合いじゃないんだから……でも、昨日あった出来事を話したら最後、イルミはすぐにでもこの島を離れると言い出すだろう。
怒涛の勢いで家に帰って、キキョウさんを問い詰めて――それで、ことの詳細が明らかになったとしても、何の解決にもならない。
キキョウさんが私のことを認めてくれるかっていったら、そうじゃない。
結局は、イルミの力を借りてしか何も出来ないと思われてしまうだろう。
それに、このことでイルミとキキョウさんの仲に亀裂が入ってしまうのも嫌だ。
なんだかんだ言っても、私のことを受け入れてくれた家族なのだ。
その絆を壊すような真似はしたくない――
「……」
「海月?」
「……イルミ、ごめん……嘘もついてるし、イルミに隠してる事もあるんだけど、今はまだ話したくないことだから、もう少し待って欲しいの」
お願い、とイルミの胸に顔を寄せる。彼は、少しだけ目を丸くした。
「うわー、ずるい。そんな言い方されたらもう無闇に聞き出せないじゃない」
「……ごめん」
「それ、有効だけど家族内では俺にしか通じない手だからね。――本当に、話せる時が来たら話してくれるの?」
「うん」
頷く私を、イルミはじっと見つめてくる。
暫くの間、どうするべきか思案している様子だったけれど、重い沈黙の最後はため息でしめくくられた。
「わかったよ」
「ありがとう、イルミ」
どういたしまして、と不満半分に呟く彼にぎゅっと抱きつく。
「はいはい……それはそうと、俺からは海月がびっくりするような報告があるんだけど」
「え、なに?」
小首を傾げる私に、眉ひとつ動かさずにイルミは言った。
「ミルキが朝帰りしたんだ」
***
「ミルキくん!! ちょっと、ミルキくーん!!」
着替えもそこそこに食堂に駆けつければ、そこにはシャツに青のジーンズ姿のミルキくんの姿が。
焼きたてのトーストを頬張るその横顔が、ほんの一瞬だけ、イルミに見えた――気も、しないでもなかった。
「ミルキくんがジーンズ!? うそ! スエットでもジャージでもゴム付きのチノパンでもなくジーンズ! 履けるようになったんだ……!!」
「朝っぱらから喧嘩売ってんのかコフー!! これだけ連日重労働で働いた上に修行してりゃ、腹くらい引っ込むっての!」
「それはそうかもしれないけど……ていうかミルキくん、ほんとに痩せてない?昨日よりまた一回り小さくなってる気がするんだけど」
顔周りは確実にスッキリしてるし、特にウエスト部分がすごい。
こうして横から見ると、椅子とテーブルとの間が普通の人の距離感だもん。
前はそう……少なくとも一メートルはあけないと、お腹が邪魔で座われてなかった。
「ふふん。そりゃあ、俺だってやる時はやるぜ。昨日はチルノと一緒に、ビスケんとこで徹夜同然で修行してたんだぜコフー。あいつ、起こしても起きなかったから、俺だけこっちに帰って来たんだ」
「ほんとに!?ああ、だから朝帰りしたんだ、なーんだ……って、あれ?」
ミルキ、今なんて言った?
「チルノって……まさかミルキくん、知ってたの!」
「知らないとでも思ってたのか?あれだけ目立つ外見してんだぜ、ちょっと調べりゃわかんじゃん」
サックサックと食パンをクッキーのように次から次へとほおばりながら、ミルキ。
「チ、チーちゃんはこのこと……」
「ああ、昨日話した。昔、暗殺業やってる連中に騙されて、医療用だって名目で毒開発させられてたことがあって、それ以来毛嫌いしてるんだってさ。ま、俺達は基本的に毒使って暗殺なんて確率の低い真似しねーから、あいつの正体を知ったところでどうもしないけど」
「そ、そう。はーあ、それにしても流石だね、いつの間に調べたの?」
「企業秘密。ああ、それよりポー姉、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ききたいこと?」
山積みのトーストをあらかた食べ終えたミルキくんは、食後のコーヒーにダイエット用の豆乳をなみなみと注いだ。
「最近、妙な奴に会ったりとか、そいつになんかされたりとか、されてない?」
「……っ、えっとー……ああ! この島の島長さんとか?」
「アレはノーカウントで! ないなら別にいいんだけどさコフー。昨日、ポー姉んとこのトモチカって学生に会ったんだけど、デントラ港や、この島の近海に、妙な小型船がうろついてるらしいから、ちょっと気になったんだよ」
「小型船……なんだろう、デントラ港は自警団がいるから、滅多なことはないと思うんだけど。この辺りは観光用の船も多いから、わりと監視が緩いんだよねー。物騒なことでもないといいんだけど。ちょっと見まわってこようかな」
「ダメ」
「わっ!?」
振り向けば、イルミ。
足を組み、背を階段の手すりに軽く預ける格好で、いつからそこにいらっしゃったのだろう。
「今日は俺と出かけるんでしょ。パーティー用のポーのドレス、見に行こうって言ってたじゃない」
「う、うん、そのついでにちょーっと一回り……」
「ダメ。ポーはこの島に仕事をしに来たの?」
違うよね、と見据えられればもう、逆らえないわけで……ううっ!
「でも気になるよう、イルミー!」
「ポー姉、トモチカが言ってたぜ。そういうのは自分たちに任せて、しっかり休暇を楽しんで来いって。でも一応、報告まで」
「うう……」
「そういうこと。さ、早く朝ごはん食べちゃいなよ。朝の作業が終わったら、ミルキをビスケに任せて、ドレスショップに行こう」
「ちぇー。まあ、いいか。確かに、せっかくゆっくりしに来たんだもんね」
うん、とイルミが頷いたときだ。
玄関の向こうから、聞きなれないエンジン音が聞こえてきた。
「この音……船じゃない。でも、飛行船にしては大きいし。あっ、イルミ!」
心当たりがあるのだろうか。イルミもミルキくんも、ちょっと青い顔をしながら足早に外に出る。
私も慌てて二人に続いて――空を見上げて、エンジン音の正体を知った。
やっぱり、とイルミが呟く。
「うちのジェットだ」
「ジェット機!? ええっ、そ、そんなの持ってたの!? し、しかもあのジェットすごいよ、海の上に着水した!」
「あるよ。経費がかかるから滅多に使わないけどね」
「パーティーは明日の夜だもんなあ、そろそろ来るかと思ってたけど、まさか、家族全員で来たんじゃないだろうなコフー……」
銀色に光る、蛇のように長い機体には見覚えがある。
忘れもしない、ハンターアニメ旅団編、クロロ暗殺のために久々に登場したシルバさんとゼノさんが、空港に降り立ったときに乗って来た、あの……!!
「まさか、水陸両着機だっただなんて……痛い! イルミ、なんで摘まむの?」
「ポーは本当に呑気なんだから。会った途端に殺されるとか、考えないの?」
「考えないよ。電話でなにも言われなかったもん。ダメなことはダメって言うでしょ、シルバさんは」
「うん。それが分かっててのんびりしてるんならいいけど」
そう。シルバさんはきちんと言ってくれる。でも……キキョウさんはそうじゃない。
シルバさんやゼノさんの言うことに従いはするけれど、本心じゃ納得してないことも多いはずだ。
私がイルミと結婚しようとしていることも、家に婚約者だと認められたことも。
だから、きっと――
「ポー、行くよ」
「あ、う、うん!」
沖に突き出した桟橋の先に、ゾルディック家御大の姿がある。
シルバさんにキキョウさんに、ゼノさん。カルトくんも、もちろん一緒だ。
イルミやミルキと一緒に浜辺で出迎えると、途端に青い眼光が飛んできた。
シルバさんだ……オフホワイトのスラックスに、落ち着いた、モノクロトーンのアロハシャツを着たシルバさんだ!!
しかもサングラス―!!
すごい……イルミのアロハに続いてシルバさんまで……もう、もう悔いはないかもしれない!
ゆったりとした足取りでやって来たシルバさんを、キラキラした目で見つめる私――の前に、ずい、とイルミが割り込んだ。
「おはよう、父さん。なにしに来たの」
「イルミ、そう警戒するな。たまたま休みが取れたんで、様子を見に来ただけだ」
ポー、と呼ばれる。
イルミの背中から顔をのぞかせると、ひょいと首根っこをつまみ上げられた。
「やってくれたな」
「うひゃああああああああああ!! すみませんすみません!!」
「今度からは事前に了解をとれ。それで、ミルキはどこにいる」
「えっ?」
どこって。
精悍な腕に首根っこを掴まれたまま後ろを振り向く。
こくん、とミルキが頷いた。
「ふん。そんな影武者は通用せんぞ」
「いやいやいやいや! なんなら遺伝子鑑定に出しても構いませんよ!?」
がっしりと襟首を掴む手をぷるんと滑らせ逃れると、シルバさんはゆっくり首を傾げた。
ややあって、ああ、と納得し、
「イルミ、針を抜け」
「刺してないし。いい加減に認めたら。正真正銘、ミルだよ」
どん、と蹴り飛ばす勢いでミルキを突き出すイルミである。
汗だくの上、真っ青になるミルキを、シルバさんは射殺さんばかりの視線で見据えておられる。
「パ、パパ……久しぶりーうおわあああああああっ!?」
ドッシュウッ!! と問答無用で繰り出されたナイフを、
「避けた!」
「へー、すごい。父さんの不意打ちを避けるなんて、初めてなんじゃないの、ミル」
「はあ、はあ、じ、寿命が縮んだぜコフー……」
「随分痩せたな、ミルキ。瞬発力、身体能力ともに向上している。何をした?」
キロリ、と向けられた視線の先は私だ。
イルミを見上げると「言ってもいいよ」と頷かれたので、
「珊瑚の植え付け作業プラス、念の基礎修業を少々……心源流のお師匠様がちょうど島にバカンスに来ておられたので、近海で採れる真珠と引き換えに、鍛えてもらえるよう取引しました!」
「ふむ。なかなかいい腕だ」
うむ、と頷くシルバさんは満足げだ。よかった、この島を無断で買い取った件は、お咎め無し、と……。
「ポ―――――――――――ッッ!!!」
「うひゃああああキキョウさんっ!! ま、真っ赤なパレオにパープルのパナマ帽なんて斬新ですねって痛い痛い!! そんなに摘んだら痛いですよう……!」
「ぅお黙りっ!! この穀潰しの泥棒猫!! 今度我が家の資金を騙し取るような真似をしたら、わたくしがこの手でぶっ殺しますからね――っ!!」
うう……もうすでに人の手を借りてぶっ殺そうとしてるくせに……!
「その件は、本当にすみませんでした……遅ればせながら、資金は充分に集まりましたので、デントラに帰り次第、全額お返しします……!」
「そんなことを言っているのではありませんっ!! 全く……あら? そ、そこにいるのは……ミル? キャアアアアアアアアアアアアアーッ!! 本当にお前なの!? ちょっと見ないうちにスマートになって!!」
う、うおおおう、耳が痛いよう……!
キンキンと頭に響く声から逃れると、砂浜を走ってきたカルトくんが抱きついてきた。後ろからは派手なドラゴン柄のアロハに身を包んだゼノさんもやってくる。
「ポー姉様!」
「カルトくん! ゼノさんも、お仕事あけてくださったんですか?」
「はい!」
「元気そうでなによりだ、ポー。ミルも無事に痩せおったことじゃし、あとは婚約発表パーテーの準備を整えるだけじゃな!」
かっかっか、と笑うゼノさんの後ろを、この熱いのにぴっちりした黒服姿の執事隊が、忙しそうに機材を運んでいく。
「婚約発表パーティー……」
なんだろう。
すごくひっかかる。
発表、っていうことはつまり、発表する相手がいるってことだ。
暗殺一家であるゾルディック家が、長男の嫁になる人間をわざわざ知らせなきゃいけない相手――
“実力で、証明してみせる”
「……まさか」
「うん? どーしたんじゃ、青い顔しおって」
「い、いえ! な、なんでもありませんっ! も、もうパーティーの準備を始めるんですか?」
「会は明日の夜じゃからな。それにしても、島が手に入ったのは調度良かったわい。人目につきにくい会場探しはなかなか手こずっておったからな」
「よ、よかったです……でも、今度からはちゃんと相談しますね。すみません、色々とお騒がせしてしまって」
「気にするな、まんまと担がれたシルバが悪いんじゃ。なあ、イルミ」
「うん。ポーは何も悪くないよ。契約どおりミルも痩せさせたし、後腐れなし。さ、ここにいると面倒に巻き込まれそうだから、さっさと街に行こう。母さんに捕まったら何かと長いよ」
「う、うん……」
キキョウさん、すっかりスマートになったミルキくんの写真を撮るのに夢中みたいだ。
すごく嬉しそう。漫画では、溺愛してるのはキルアとカルトくんだけかと思ってたけど、キキョウさんってイルミに対しても細々世話をするし、ミルキの食事管理にも熱心だし、基本的に兄弟全員大好きなんだろうなあ。
親だから、当たり前のことかもしれないけど。
私がイルミのお嫁さんになったら、キキョウさんは私にとってもお母さんになるわけだ。
でも……あんなふうに愛される自信は、私にはない。
昨日、去り際に残されたシィラの言葉が思い出された。
“貴女は、イルミの伴侶に相応しくない。キキョウ様も、そう仰っておられた”
「……っ」
「ポー、どうしたの? ボートを出すからおいで」
「うん……今行くね」
強張る表情を無理に動かして笑顔をつくる。
そんな私を、イルミは何も言わずにただ見つめていた。